【東京駅】アートコース

千代田区

【東京駅】アートコースのイメージ

このツアーは東京駅丸の内駅舎内外に点在する芸術作品やアートスポットを、東京駅の中の美術館「東京ステーションギャラリー」の学芸員がセレクトし、その歴史を紹介するものです。
東京駅には彫刻やレリーフといったアート作品が随所に存在します。そうした作品について知ることは、東京駅の歴史を知ることでもあります。
東京駅丸の内駅舎を、アートを切り口に探索し、110年を超える歴史をたどる時空を超えた知的な旅をお楽しみください。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「43202」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

東京ステーションギャラリー

東京都千代田区

東京ステーションギャラリーのイメージ

【アクセス】JR東京駅 丸の内北口 改札前 *館内に入るためには入館料が必要です

【所在地】〒100-0005 東京都千代田区丸の内1-9-1

【沿革】
1988年 東京駅丸の内駅舎中央口横に開館 
*当時の美術館入口は、現在、東京ステーションホテル宿泊者専用の出入り口となっている
*当時の駅舎は2階建てで、展示室は2階にのみにあった
2006年 東京駅丸の内駅舎保存・復原工事のため休館
*休館までに国内外のさまざまな芸術や建築などをテーマに105本の展覧会を開催
2012年 東京駅丸の内駅舎北口ドーム内にリニューアルオープン

【活動の目的と内容】
駅を単なる通過点ではなく、香り高い文化の場として皆さまに提供したいという願いを込めて、東京駅丸の内駅舎内に誕生しました。「近代美術の再発見」、「現代アートへの誘い」、「鉄道・建築・デザイン」をテーマに、多彩で個性的な内容の展覧会を年間4~5本ほど開催。展覧会に関連したイベントや重要文化財の建物をテーマにした教育普及活動なども実施しています。
なお、2016年より2階回廊に東京駅丸の内駅舎の歴史を解説する展示スペースを設け、東京駅創建当時の建材やレリーフなどの貴重な資料の展示を開始しました。

【特徴】
復原工事前の駅舎は2階建てで、2階にあった4つの展示室のうち、2部屋の壁は創建当時からの駅舎の構造レンガを露わにしていて、駅舎の歴史を体現するレンガ壁の美術館として来館者に親しまれてきました。2012年のリニューアルを機に、構造レンガ壁を露わにした面積がさらに増え、1階と2階、階段などで見ることができます。レンガ壁には1945年に東京大空襲で駅舎が被災したときに炭化した「木レンガ」が点在しています。そして、駅舎最北端に位置する八角塔に設置された階段室は、復原工事によって増設された3階部分と駅舎創建当時からの2階以下の構造の違いを確認することができる、珍しいスポットです。

井上勝像(故正二位勲一等子爵井上勝君像)

東京都千代田区

井上勝像(故正二位勲一等子爵井上勝君像)のイメージ

【アクセス】JR東京駅丸の内北口を出て、新丸ビル方面へ歩くと横断歩道の手前にある。駅から徒歩1分。地下からはM8出口を出てすぐ。

【所在地】JR東京駅丸の内駅前広場 北側

【作品データ】
作品名|故正二位勲一等子爵井上勝君像(井上勝像)
作者|朝倉文夫
制作年|1959年
銅像のサイズ|約3.9メートル

【沿革】
1910年 井上勝が英国視察中に病没、井上勝像建設計画スタート
1914年 井上勝像(初代)建設
[原型制作=本山白雲(彫刻家 1871-1952)、台座設計=辰野金吾]
1944年 戦時下の金属回収で供出、台座のみ残される
1959年 井上勝像(2代目)が初代の台座に建設される
[原型制作=朝倉文夫(1883-1964)]
1961年 旧国鉄本社ビル新館建設に伴い、銅像と台座が撤去れる
1963年 東京駅中央改札前に建設された新しい台座に井上勝像(2代目)が再建される
1968年 総武線東京乗り入れの東京地下駅工事のため、銅像と台座が撤去される
1987年 再建
2007年 東京駅丸の内駅舎保存・復原工事と駅前広場の再開発のため、銅像と台座が撤去される
2017年 現在の位置(東京駅丸の内駅前広場北側)に再建される

▼よみもの▼

東京駅丸の内駅舎北口を出て駅前広場を新丸ビル方面に進むと、「井上勝」の銅像(正式名称:故正二位勲一等子爵井上勝君像)が駅舎中央口を向いて立っています。
▽井上勝とは▽
 井上勝は1843(天保14)年に長州藩士の三男として生まれ、20歳のときに同志4人[井上薫、伊藤博文、遠藤謹助、山尾庸三]と国禁を犯して渡英した、いわゆる「長州ファイブ」の一人です。帰国後は英国での経験を活かして鉄道開業に尽力し、鉄道専門官僚として政府への建議書の提出や、日本人技術者育成のための養成所創設など日本の鉄道黎明期の礎を築きました。そうした功績から、井上は日本の「鉄道の父」と呼ばれています。

▽井上勝像(初代)の建設経緯▽
 1910(明治43)年5月、井上は鉄道院顧問として鉄道視察のため渡欧しますが、持病のため帰国を目前にした8月2日、ロンドンで客死してしまいます。翌月、彼の功績をたたえるため「故井上子爵銅像建設同志会」(以下、「同志会」)が発足されたことで、井上勝像の建設計画がスタートしました。
 同志会は発足後すぐに建設主意書を配布して募金活動を行い、当時、偉人像を数多く手掛けていた彫刻家の本山白雲(もとやまはくうん/高知県出身1871-1952)に原型制作を依頼しました。完成した井上勝像は約3.75メートルのフロックコートを着た直立姿勢の全身像で、手には鉄道図案の巻物を握りしめた姿でした。現在の場所とは異なり、鉄道院庁舎建設予定地前(現在の「日本生命丸の内ビル」横)に建てられ、1914(大正3)年12月6日、同年の東京駅の開業式(12月18日)に先だって盛大に除幕式が開催されました。

▽井上勝像(初代)の台座について▽
 銅像の台座は東京駅と同じ辰野金吾が設計しました。杭打コンクリートとレンガを用いた基礎に、八角形の土台が置かれ、その上に、花崗岩でできた四角柱の台座が乗った高さ7.35メートルもの巨大なものでした。台座の裾には井上の功績を伝える器具(レール、ビーター、動輪など)とともに、井上と所縁の深い英国を象徴する植物のモチーフ(オークの葉やどんぐり)をデザインした飾り石が、前後左右4つの面に取り付けられました。八角形の台座の土台は東京駅の南北ドームや塔の形と呼応するように、辰野がデザインしたのかもしれません。

▽井上勝像(初代)の撤去と2代目の建設経緯▽
 さて、現在の井上勝像は、じつは2代目です。
 本山白雲が作った初代の井上勝像は、1944年、戦時下の金属回収で供出されてしまい、銅像があった場所には長らく台座だけが残されていました。戦後の1958年2月、日本交通協会内に井上勝没後50年を記念する「井上勝銅像を再建する会」(以下、「再建する会」が発足され、像再建の契機となったのです。
 2代目の井上勝像は1948年に彫刻家として初めて文化勲章を受章した朝倉文夫(大分県出身/1883-1964)に依頼されました。生涯に約400体余りもの肖像彫刻を作った朝倉ですが、井上勝像制作にあたっては、故人の写真が少なく、構想がまとまるまで時間がかかったようです。しかし、「再建する会」から依頼されていた1959年10月14日の鉄道記念日の除幕式に間に合わせるため、なんとか原型制作に着手し、わずか2週間という異例の速さで仕上げました。こうして完成した銅像は約3.9メートル(足下の土台を含める)のモーニングを着た井上勝全身像で、左足を一歩前に踏み出して、今にも動き出しそうな姿です。足元の土台には朝倉のサインと制作年が彫られています。

▽井上勝像(2代目)の撤去と再建の歴史とその意義▽
 当初は辰野金吾が設計した台座の上に設置されましたが、旧国鉄本社ビル新館建設に伴い銅像の場所を移転することとなり、1961年にいったん銅像と台座のどちらも撤去されてしまいます。その後、1963年に東京駅中央改札前に新たな台座が設けられ、皇居を向いて再設置されますが、わずか5年後の1968年5月には、総武線東京乗り入れの東京地下駅工事のため、また撤去されます。
 井上勝像は1987年7月に再設置されますが、東京駅丸の内駅舎保存・復原工事と駅前広場の再開発のため、2007年に再び撤去され、2017年12月にようやく現在の位置に落ち着きました。
 銅像はひとたび設置されると不動のものと思われがちですが、井上勝像においては戦争や地域開発によって位置や向き、姿までもが変っているのです。
 井上勝像の歴史を知ることは、東京駅がたどった110年の歴史を再確認することでもあります。

愛の像

東京都千代田区

愛の像のイメージ

【アクセス】JR東京駅丸の内南口を出て丸ビル方面へ歩くと、横断歩道の手前にある。駅から徒歩1分。

【所在地】JR東京駅丸の内駅前広場 南側

【作品データ】
作品名|愛の像(通称)
作者|横江嘉純(1887-1962)
制作年|1955年
銅像のサイズ|約3.6メートル

【沿革】
1955年 東京駅丸の内駅舎前、中央付近の広場に建設される(除幕式11月11日)
1968年 東京地下駅工事のため銅像と台座が撤去される
1987年 東京駅丸の内駅舎前、中央付近の広場に再建される
2007年 東京駅保存・復原工事と駅前広場整備のため井上勝像とともに撤去される
2017年 現在の位置(東京駅丸の内駅前広場南側)に再建される

▼よみもの▼ 
 
井上勝像と対をなすように設置されている銅像があります。
通称、「愛の像」です。
▽「愛の像」に込められた平和への祈り▽
この像は、第二次世界大戦の戦犯として巣鴨プリズンに収容され、処刑された人々の遺書や遺稿を集めて出版した『世紀の遺書』(1953年)の編纂委員会が、その印税で、平和への祈りを込めて彫塑家の横江嘉純(よこえよしずみ/富山県出身/1887-1962)に依頼し、制作されたものです。1955年11月11日、除幕式が行われました。
 像の高さは約3.6メートル、両手を天に差しのべて立つ半裸の男性を象り、台石にはギリシャ語で「神の人間に対する愛」を意味する「アガペ―」の文字が刻まれています。この文字を揮毫したのは巣鴨プリズンで教誨師を務め、助命嘆願にも奔走し収容された人たちから「巣鴨の父」と慕われた田嶋隆純氏(朝日新聞「戦犯の祈り 平和問う像」2018年2月26日)です。この台石の中には、『世紀の書』が一冊納められています。

▽「愛の像」建設・再設置の経緯と意義▽
 当初、この像は東京駅丸の内駅舎の中央付近の広場に、駅を向いた形で設置されていました。1955年当時の駅前広場は、初代の井上勝像が金属回収で撤去された後、辰野金吾設計の台座のみが旧国鉄前にあるという状況でした。この「愛の像」の建設が、2代目井上勝像の再建(1959年、朝倉文夫作)を後押ししたとも考えられるかもしれません。
 1963年に2代目井上勝像と初代台座が撤去され、1968年の再建にあたっては、当時駅前にあった大銀杏を挟んで「愛の像」の反対側に、皇居を向くかたちで設置されました。現在も、駅舎に対して南北に対になるような形で設置されている二つの銅像ですが、設置当時から、両者の位置関係は相互に関連していたのです。
 「愛の像」も井上勝像と同様に、駅前工事等の都合で撤去と再設置の憂き目にあっています。1968年には東京地下駅工事のため撤去、その後、1987年までの長い間、不在が続きました。2007年には東京駅保存・復原工事と駅前広場整備のため井上勝像とともに再び撤去され、2017年にようやく現在の位置に設置されました。
 東京駅は大戦中、出征兵士をたくさん見送った駅でもあります。そうした歴史を考えると、戦犯を生むような戦争を二度と繰り返さないためにという平和への願いを込めて制作された「愛の像」が駅前に建設されたことに深い意義を読み取ることができるでしょう。紆余曲折を経てようやく現在の位置に落ち着いた井上勝像と愛の像が、今後も末永く設置され続けることを願って止みません。

東京駅RTOレリーフ

東京都中央区

東京駅RTOレリーフのイメージ

【アクセス】JR東京駅京葉地下八重洲口の改札を出てすぐ左
【所在地】JR東京駅京葉地下八重洲口前
【作品データ】
作品名|東京駅RTOレリーフ
作者|中村順平、本郷新、建畠覚造、田畑一作、白井謙二郎、北地莞爾、中野四郎
制作年|1947年
サイズ|縦3×横37.5メートル(名所図会のレリーフ)、縦2.6×横11.6メートル(日本地図のレリーフ)

▼よみもの▼

今から約80年前、東京駅に誕生した「RTOレリーフ」の存在を知る人はあまり多くないでしょう。現在は京葉線改札口外の曲がりくねった 地下通路に移設されていますが、もとは東京駅南口ドーム近くのRTO待合室(現在、東京ステーションホテル1階ロビーラウンジのある場所)にありました。RTOとは、第二次世界大戦後の日本を占領下においた連合国軍が設けた鉄道輸送事務室(Railway Transport Office)のことです。1946年11月、戦災復興工事を急務とする東京駅において、RTO専用待合室をつくるよう命令が下されました。このとき、進駐軍を驚かせるような意匠を待合室の壁に施してはどうかという工事関係者の発案を受け、建築家・中村順平の指揮のもと、本郷新、建畠覚造、田畑一作、白井謙二郎、北地莞爾、中野四郎ら6名の彫刻家が約半年かけて制作したのがこの石膏レリーフです。中村順平が描いた下絵を、マス目が引かれた板の上に写し取り、そこに粘土を盛って浅浮彫の立体感を出した後、型をつくって石膏を流し込み、型抜きするという流れで制作されたと考えられます。仕上げに塗った表面のニスが経年劣化で茶色に変色してしまいましたが、かつては真っ白でした。レリーフは大きく分けて2種類から成ります。いっぽうは、画面の左から岩国の錦帯橋、宮島の厳島神社、東西を行き交う駕籠と旅人、奈良の鹿と東大寺、京都の大原女、東海道の松並木、鎌倉の流鏑馬、江戸の船出、日光東照宮を配した、いわば日本の名所図会です。待合室の扉やアーチ型の出入口の不規則な形状に合わせた約40メートルの長大な構図です。もういっぽうは、RTO所在地や駅名、地名、観光地などがローマ字で記された約12メートルの日本地図で、進駐軍への鉄道案内にも重宝したことでしょう。1952年春、GHQの占領が解かれ、RTOが国鉄や各鉄道会社に返還されるとRTO待合室は特別待合室へと名称を変えました。そして1974年、駅内の改装にともないレリーフは壁板ですべて覆われてしまいました。2000年代になって、重要文化財指定を受けた東京駅で丸の内駅舎保存・復原工事に向けて調査が進むなか、約30年ぶりに壁裏から姿をあらわしました。有識者によって文化財的価値があると認められ、慎重に取り外され、現在の場所に移設されました。かつては約2メートルの腰壁の上にありましたが、現在は目線の高さ置かれ、モチーフ間の余白も1割ほど省略されています。記録によれば東京駅の復興工事に携わっていた人々はこの制作現場をのぞいては中村順平らのひたむきな制作姿勢に励まされたといいます。このレリーフは、戦後日本の再起にかける信念の表れであったと同時に、日本の風土を誇り、鉄道旅行を楽しみ、平和を享受する新しい時代の幕開けにふさわしいモニュメントだったといえるでしょう。

ステンドグラス「天地創造」

東京都中央区

ステンドグラス「天地創造」のイメージ

【アクセス】JR東京駅京葉線連絡通路(改札内)1階から地下に降りるエスカレーター脇。Keiyo Drug近く。

【所在地】JR東京駅京葉線連絡通路

【作品データ】
作品名|ステンドグラス「天地創造」
作者|福沢一郎、大伴二三彌
制作年|1972年
サイズ|縦5×横9メートル

▼よみもの▼

東京駅に総武線地下ホームが開業した1972年、鉄道開業100周年記念として日本交通文化協会が寄贈したステンドグラスです。当初は地下ホームに向かう階段上に設置されていましたが、2012年、京葉線連絡通路に移設されました。かつて「世界最大級」のステンドグラスとうたわれた本作は、縦5メートル、横9メートルにおよび、画家・福沢一郎(1898-1992)の原画をもとに大伴二三彌(1921-2006)が制作しました。これより15年前に福沢が描いた《埋葬》(1957年、東京国立近代美術館蔵)という油彩画があります。《埋葬》を右に90度回転させた図版をカンヴァスに転写し、下部を切り取って加筆、さらに右側を描き足すという方法で《天地創造》の原画(東京ステーションギャラリー蔵)は描かれています。つまり《天地創造》の左下に見えるパイナップルを手にした女性像は、《埋葬》では横倒しに描かれていました。ステンドグラスの原画制作の依頼を受けたものの良い案が浮かばなかったために、福沢が思い切って過去作を回転させて加筆したというエピソードも残っています。1950年代半ばから約10年間、福沢が取り組んでいた「中南米シリーズ」と呼ぶスタイルの、明るい色彩の組み合わせやモチーフを囲む黒く太い輪郭線は、ステンドグラスの表現とも相性がよかったようです。