江戸三十六見附ウォーク第4回 半蔵門から竹橋門まで歩こう

千代田区

江戸三十六見附ウォーク第4回 半蔵門から竹橋門まで歩こうのイメージ

「江戸三十六見附ウォーク」
江戸城を中心に巨大な城郭都市をなしていた江戸。江戸城の安全を見張るために街道の分岐点など交通の要所に36ヶ所の見附(見張り場所)が「の」の字を描き設置され、江戸城を護っていました。「江戸三十六見附ウォーク」は浅草橋駅から江戸城跡まで4回に分けて今も残る御門や見附跡を巡ります。

第4回のこのコースは、半蔵門から竹橋門の歩行距離約6kmのコースです。途中、周辺の史跡や名所にも立ち寄りながら楽しく巡っていただけます。

本ツアーは現在、無料でご利用いただけます。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「72352」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

東京メトロ半蔵門駅

東京都千代田区

東京メトロ半蔵門駅のイメージ

半蔵門駅は1982年(昭和57年)に帝都高速度交通営団の半蔵門線の駅として開業しました。2004年(平成16年)、帝都高速度交通営団の民営化に伴い、現在は東京地下鉄(東京メトロ)に継承されています。
駅周辺は落ち着いた雰囲気の自然溢れる皇居周辺や、地元で人気のオシャレカフェなど見どころがあり、国内外からも観光客が集まる人気のエリアです。また皇居をはじめとする国会議事堂、最高裁判所など、日本の政治の中心である施設もここ半蔵門駅から近い位置にああります。また駅名の由来である、江戸城を守る門の1つであり、天皇・内廷皇族及び秋篠宮家の皇居への出入りにも使用されている「半蔵門」もあります。

※スタンプは「ドトールコーヒーショップ 半蔵門店」付近で獲得できます。

半蔵門

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半蔵門のイメージ

半蔵門の「半蔵」という名前の由来は、伊賀忍者の頭領・服部半蔵とその配下がこの門を守っていたからとも、門外に半蔵の屋敷と配下の組屋敷があったからとも言われています。また、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するとする説もあります。実際は屋敷と組屋敷があったことは事実なので、定説としましては前者であるとされています。しかしながら、1636年(寛永13年)の江戸城外堀工事の際に屋敷ならびに組屋敷は共に四谷へ移転しました。
半蔵門は桜田門と同じような枡形でしたが、櫓門の部分は明治時代に撤去されました。この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされていました。現在の門は太平洋戦争で旧来の門が焼失したため、和田倉門の高麗門を移築したものです。

※スタンプは「半蔵門交差点の歩道」付近で獲得できます。

柳の井

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柳の井のイメージ

過去には歌川広景、広重らにも描かれた江戸の名所です。桜田濠淵の土手に柳があり、その木の下に井戸があります。これが「柳の井」です。
江戸の地誌によって、名水として知られる井戸が数多く紹介され、そのほとんどは井戸の傍らに植えられた樹木の名前にちなみます。この「柳の井」もその1つで、傍らに植えられた柳の木からちなみます。真後ろの国会前庭の一角にある「桜の井」とともに、東京都教育委員会により旧跡として1955年(昭和30年)に文化財に指定されました。

※スタンプは「半蔵門から、川沿いを約600m進んだ辺り」で獲得できます。

憲政記念館

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憲政記念館のイメージ

1970年(昭和45年)、日本国の議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立、1972年(昭和47年)に開設されました。日本の政治を写真やビデオなどにより、わかりやすく展示しているほか、国会の議場を再現した議席などもあります。憲政記念館は国会議事堂隣接する国会前庭内に建ち、四季折々の国会前庭の自然を楽しめます。
憲政記念館の建つ高台は、江戸時代には加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり、幕末には藩主であり、時の大老でもあった井伊直弼が居住し、後に明治時代になってからは参謀本部・陸軍省がおかれました。1952年(昭和27年)にこの土地は衆議院の所管となりました。

井伊家屋敷跡

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井伊家屋敷跡のイメージ

憲政記念館のある高台は、江戸時代に彦根藩井伊家の上屋敷がありました。上屋敷とは、大名本人とその家族が居住した邸宅です。井伊直弼はこの上屋敷から内堀(桜田濠)沿いの道を桜田門に向かう途中の路上で桜田門外の変に遭いました。現在、この場所は憲政記念館として知られる他、国会前庭の北庭として有名です。明治維新後に当地は国有地となりました。そして陸軍省が廃止された戦後に衆議院の所管に移され、周囲の土地区画整理や道路拡張の後に洋式の庭園に整備されたのです。北庭の中心には三権分立を象徴するとされる時計塔がシンボルとして建てられています。

外桜田門

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外桜田門のイメージ

一般に桜田門と呼ばれているのがこの外桜田門です。小田原街道の始点にあたり、小田原口ともよばれていました。枡形が完全に残っている城門なので大変貴重なものとなっております。なので1961年(昭和36年)には、「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定されました。江戸城には外桜田門と内桜田門の2つがあり、内桜田門と呼ばれる枡形は「桔梗門」とも呼ばれているので、単に「桜田門」という場合この外桜田門を指す場合がほとんどです。
井伊直弼が暗殺されたことで有名な「桜田門外の変」はまさにこの場所で起きました。また現在では桜田門の正面(豊後杵築藩松平家屋敷跡)には警視庁の庁舎があり、この事から警視庁は隠語で「桜田門」と呼ばれることもあります。

上杉家上屋敷跡

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上杉家上屋敷跡のイメージ

桜田門の正面は。米沢藩上杉家上屋敷跡でした。初代藩主上杉景勝は会津若松120万石を領した大大名だったが、関ヶ原の戦いの際に西軍に与し、出羽米沢30万石までに減封。その後さらに15万石に減封されました。米沢藩を立て直したのは、9代藩主上杉鷹山でした。
現在の上屋敷跡は赤レンガが目立つ法務省旧本館が建っており、国の重要文化財に指定されています。また、近くには時代劇などでも有名な大岡越前守の屋敷もありました。その法務省旧本館前には、山形県米沢市によって設置された標柱が、屋敷跡から出土したという礎石とともに設置してあります。他にも、米沢藩上杉家は、麻布台にあるロシア大使館前の総務省飯倉分館にも屋敷を構えていました。

日比谷公園

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日比谷公園のイメージ

都会のオアシスとして名高い100年以上の歴史がある公園です。その始まりは明治36年(1903年)で、平成25年(2013年)に開園110周年を迎えました。この地はもともと幕末までは松平肥前守などの大名屋敷地でしたが、明治時代に陸軍練兵場となるなどの歴史があります。また、明治30年代、まだ西洋式公園が浸透していなかった時代にドイツ留学から帰った本多静六博士の設計案をもとに整備されたのが、現在の日比谷公園のはじまりになります。文化の先駆者として公園設計者の意気込みは、小音楽堂や第一花壇、イチョウ並木の園路などに見ることができます。 また、公会堂や大音楽堂も現在でも広く利用されています。
そんな日比谷公園最大のシンボルが「大噴水」です。

※スタンプは「公園内 アーク灯」付近で獲得できます。

日比谷門位置

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日比谷門位置のイメージ

日比谷門は、現在の日比谷交差点より少し桜田門に寄ったところにありました。現在では過去の日比谷門の遺構はここ、日比谷公園の中にあります。日比谷公園正門を入り、少し直進すると左側にある石垣が日比谷門の遺構です。日比谷門は、寛永4年と寛永6年に、浅野長晟と伊達政宗により構築されてました。江戸城の見附としては少数派の、橋や土橋が設けていない地続きの見附でした。
徳川家康が入国したころは、日比谷は海でした。それを埋め立てて、現在の丸の内や日比谷です。そして、その海の一部を利用して、内濠としました。その内濠の一部が、現在、前述の石垣の西側にある心字池になります。

鍛冶橋門

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鍛冶橋門のイメージ

現在は埋め立てられていますが、JR東京駅から鍛冶橋交差点び間に江戸城の外堀があり、鍛冶橋という橋がかけられていました。そしてその鍛冶橋のさきに江戸城の外郭門の一つ鍛冶橋御門が設置していたのです。この見附は寛永6年(1629年)に東北の諸侯により建設されました。門の名前は『江戸紀聞』に「鍛冶町へ出る御門なればかくいへり」とあり、交差点の向こう側にあった鍛冶町に由来していると考えられます。しかし、明暦の大火の時に焼失し、万治2年に再建されましたが、明治になって、明治6年に枡形がは撤去されてしまいましたが、外堀には引き続き鍛冶橋が架けられていました。そして昭和20年代に、外堀が戦災の瓦礫によって埋め立てられたため、鍛冶橋はその役割を終えました。

馬場先門位置

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馬場先門位置のイメージ

内濠に架かり、丸の内二・三丁目の間から皇居正面に通じる土橋です。馬場先門は寛永6年(1629)に広島藩の初代藩主浅野長晟らによって造られましたが、まだ架橋されておらず、不開御門と呼ばれていました。門名の由来は、三代将軍徳川家光が門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を上覧したことから、朝鮮馬場の名が生まれ、馬場先の名が付けられたといわれています。架線されたのは明歴大火後の寛文8年(1668)、見附が完成してから約40年後のことです。この見附では、譜代大名の上屋敷へ家臣及び通行手形を持つ商人の出入りが許されていました。
日露戦争勝利の提灯行列が、この門にはばまれて大勢の死傷者が出たため、明治39年(1906)に枡形は撤去されました。

和田倉門

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和田倉門のイメージ

和田倉門の枡形が築かれたのは元和6年(1620年)とされていますが、門そのものは慶長(1596-1615)のころにはあったとされています。「蔵の御門」とも呼ばれ、士衆通行の橋とされていました。和田「わた」とは海の名称で「わたつみ」と同じ意義で、日比谷入江に望んで倉が並んでいたことで、慶長12年頃から和田倉と呼ぶようになりました。江戸末期の慶応4年(1868)、勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城が決定しました。同年10月には明治天皇が京都から東京に行幸し、江戸城に入城。その際に呉服橋から和田倉門を経て入城しました。
またこのあたり一帯に9000坪の会津藩上屋敷がありました。現在その場所は昭和36年(1961年)に天皇皇后陛下ご成婚を記念して作られた、和田倉噴水公園があります。

※スタンプは「公園内 公衆トイレ」付近で獲得できます。

内桜田門(桔梗門)

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内桜田門(桔梗門)のイメージ

内桜田門は桜田郷にあり、外桜田門に対して内桜田門と称しています。太田道灌が築城の頃、この辺りには日比谷入江の波が打ち寄せていました。そこで太田道灌は「泊船亭」というものを造り、ここに道灌の家紋である桔梗紋が付けられました。内桜田門が別名桔梗門と呼ばれる所以です。内桜田門は、三の丸と西の丸下を結ぶ門で慶長7年(1603年)ごろは枡形はなかったようですが、慶長13年(1608年)の図では枡形になっていたそうです。
現在は皇居参観者や勤労奉仕者などが出入りする門であり、橋の手前にゲートが設けられているので一般の方は入場できませんが、しかし新年と天皇誕生日の一般参賀の退出門。そして皇居参観の時の集合場所で、ここで受付が終わるとこの内桜田門から入城という形で利用することができます。

西の丸大手門

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西の丸大手門のイメージ

この「西の丸大手門」は、現在は「皇居正門」と名前が変更されています。「西の丸大手門」は、西の丸の正門でいわゆる二重橋と呼ばれている二つの橋の手前の橋を指します。江戸時代に橋の正面にあった高麗門と櫓門のうち、高麗門は明治21年(1888年)に皇居を新築する際に撤去され、後方にあった櫓門が前に移動されて残されました。これが現在の姿です。また西の丸大手門の前にかけられた橋は「正門石橋」、通称「眼鏡橋」とも呼ばれ江戸時代は木橋でした。現在の石造りのアーチ橋に架け替えられたのは明治20年(1887)。皇居正面石橋の連続したアーチが、水面に映ってメガネのように見えることが「眼鏡橋」と呼ばれる由来になります。
主に国賓が訪れた時に利用され、一般には解放されていません。しかし、内桜田門同様に新年や天皇誕生日の一般参賀時の時には解放されます。

二重橋

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二重橋のイメージ

皇居正門前にある2つの橋があります。よく「二重橋」は一般にこの二つの橋を総称して言われていますが、うち広場からみて奥にある鉄橋が二重橋になります。二重橋の正式名称は「正門鉄橋」。手前の石橋は「正門石橋」、「眼鏡橋」とも言われています。江戸時代には眼鏡橋が「西丸大手橋」、二重橋は「西丸下乗橋」と呼ばれていました。二重橋はその名のとおり、登城の大名等はこの橋の辺で馬や駕籠から降りる規則になっていました。
また二重橋の由来ですが、もともと江戸時代に架けられた橋ですが、橋の位置が高かったので下に土台となる丸太を組み、その上に橋を重ねました。その姿が二重に橋が架かったように見えたことから、二重橋の呼び名がついたのです。

※スタンプは「交番」付近で獲得できます。

坂下門

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坂下門のイメージ

江戸城西の丸の坂下にあったことから、「坂下門」と呼ばれるようになりました。江戸時代には高麗門と櫓門からなる枡形形式で、高麗門から入ると左に曲がって櫓門をくぐる形の門でした。しかし明治21年(1888年)に高麗門は撤去され、櫓門の角度を90度変え、正面に向きを変えて建てなおされます。西の丸に皇居が移ったため、坂下門は現在は宮内庁通用門となっており重要な入口の一つとなっています。
また、文久2年(1862)1月老中・安藤信正が登城途中に、この坂下門の前で6名の水戸浪士に襲撃された、「坂下門外の変」が起きた場所としても有名です。「坂下門外の変」が起きたのは、井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」からわずか2年後のことでした。

大手門

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大手門のイメージ

大手門が元和6年(1620年)に伊達政宗によって築かれました。かつて大手門は江戸城の正門で、登城する諸大名はこの門から三の丸に入場しました。使や将軍もこの門を利用していました。渡櫓は大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊。後に修復されるものの、昭和20年(1945年)の空襲によって焼失してしまいます。現在ある渡櫓は昭和41年(1966年)に東御苑開園に伴い再建されたものです。江戸城の正門だけあって当時は10万石以上の譜代大名2人が警護を担当し、鉄砲などを装備していました。また門前に架かる橋は現在は土橋状になっていますが、本来は木の架け橋です。
また現在は皇居東御苑からの入場、出場はこの大手門を抜けた先で受付を行っています。

同心番所

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同心番所のイメージ

同心番所は同心(幕府の下級武士)たちの詰所です。ここは本丸大手門を警備する番所で、いまでいう検問所にあたります。かつてはこの番所の前に高麗門と橋がありました。御三家をのぞくすべての大名・役人はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へのぼったため、この門は「下乗門」とも呼ばれています。また、城の奥の番所ほど位の上の役人が詰めていました。
現在江戸城に現存している番所はこの同心番所のほか、百人番所と江戸城・大番所の3つになります。中でも同心番所は3つの番所の中では格が下で、大名自身というよりお供の者の監視が任務だったようです。

百人番所

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百人番所のイメージ

ここは本丸の入口にあたる門であることから、江戸城最大の検問所でした。長さが50mもある最も大きな番所です。ここは同心番所で一度調べた後、さらに詳しく調べるための場所です。百人番所には「百人組(鉄砲百人組)」と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組(廿五騎組)の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たっていたといわれてます。同心100人ずつで警護していたことから、百人番所と呼ばれています。
ちなみに百人場所に詰めていた伊賀組は服部半蔵が率いていました。

松の廊下跡

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松の廊下跡のイメージ

松の廊下は「忠臣蔵」で知られる、浅野内匠頭が吉良上野介に対して切りかかった場所として有名。本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの廊下になります。江戸城で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。 また廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから松之大廊下と称されました。松の廊下では他に、毛利師就も乱心した水野忠恒に刃傷を受けています。
江戸東京博物館に、松の廊下の当時の様子を再現した模型があります。

本丸跡

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本丸跡のイメージ

皇居東御苑内の広々とした芝生が広がる場所は、江戸城本丸跡になります。江戸城の本丸御殿は慶長11年(1606年)に完成しましたが、その後何度も地震や火災により倒壊・焼失し、そのたびに再建されました。最後の文久3年(1863年)の焼失以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西ノ丸御殿に移したため、現在は本丸御殿跡は芝生の広場になっています。

※スタンプは「売店前の芝生」付近で獲得できます。

天守閣跡

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天守閣跡のイメージ

江戸城の天守閣は現在は天守台が残っているのみとなっております。これは高さ11m、東西約41m、南北約45mの大きさを誇り、御影石(花崗岩)でできているものです。現存しますこの天守台は、明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火によって寛永度天守が焼失したことを受け、ただちに再建が計画され、加賀藩4代藩主・前田綱紀によって築かれたものです。しかし残念ながら諸々の事情により、天守閣は再建されませんでした。また、この天守台は慶長11年(1606年)に黒田長政によって築造された天守台から数えると、4代目の天守台となります。
現在、天守台はスロープで上がれるようになっており、展望台になっています。

北桔橋門

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北桔橋門のイメージ

江戸城天守台北側と北の丸方面をつなぐ城門です。この北桔橋門は江戸城有事の際に、大奥など本丸から、直接外部に通じる搦手門として位置付けられていました。天守閣に一番近く背面に位置することもあり、濠を深く、石垣も高く築かれました。このあたりの石垣の高さは18.5mもあり、江戸城の石垣の中で最も高く積み上げられたものになります。このことから北桔橋門は江戸城の門の中では、最も堅固な防衛力を持っていました。また北桔橋門に架かる橋は、その名の通り桔橋(跳ね上がる橋)が架かっていました。往時はほとんど跳ね上げた状態でした。現在でも高麗門の柱に跳ね上げる為の金具が残っているなど、当時の面影があります。またここから皇居東御苑に入園できます。

竹橋門

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竹橋門のイメージ

竹橋門は竹平町から北の丸代官町に入る清水濠に架けられた橋です。枡形は元和6年(1620年)に東北の諸大名によって築かれ、内郭の城門として備えにあたりました。またこの「竹橋」という名の由来には徳川家康江戸入国の頃、「竹で編んだ簡素な橋が架かっていた」、と伝えられていますが、他にも諸説がありはっきりとしたことはわかっていません。現在は枡形は撤去されてしまいましたが、跡地に竹橋御門の碑があります。
また、今ある竹橋は大正15年(1926年)に建築されたものです。

二の丸庭園

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二の丸庭園のイメージ

宮内庁管轄となる約6万坪の庭園。江戸城二の丸は本丸の東側に位置し、三代将軍家光の命で寛永7年(1630年)に小堀遠州の手により、遊行のための庭園を造成しました。二代目将軍・徳川秀忠が死去した後の寛永13年(1636年)には、二の丸御殿が建てられ、東側に庭園を配置しました。現存する庭園は、往時の庭園を昭和43年(1968年)に復元したものです。ツツジ(5月)や花菖蒲(6月)が開花する時期に多くの観光客でにぎわいます。また庭園にあります『諏訪の茶屋』は、吹上御所にあった茶屋を昭和43年(1966年)に移築したものです。この茶屋自体は明治45年(1912年)に再建されたものです。

平川門

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平川門のイメージ

平川門は江戸城三ノ丸の正門です。門の造りは枡形門になっています。旧平川の流路と下平川村があったことで名付けられました。御三卿(田安・清水・一橋家)の登城口であり、江戸城大奥の通用門から御局(おつぼね)御門とも別名で呼ばれていました。また、平川門は江戸城の鬼門にあたり不浄門とも呼ばれた忌門で、城内での罪人・遺体・病人・下肥をこの門から送り出していました。罪人としてこの不浄門を利用した人物の中には、忠臣蔵として知られる「浅野内匠頭長矩」などいます。松の廊下で刃傷沙汰を起こした後、式服の大紋を脱いで、平川門から切腹場所となった芝田村町の一関藩屋敷に向かいました。

竹橋駅

東京都千代田区

竹橋駅のイメージ

竹橋駅は東京地下鉄(東京メトロ)東西線の駅の一つ。副駅名は毎日新聞社前。2015年から向谷実作曲の発車メロディ(発車サイン音)を使用しています。曲は1番線が「A Day in the METRO」、2番線が「Beyond the Metropolis」です。
駅周辺には毎日新聞社があり、観光スポットとしては皇居はもちろん、東京国立近代美術館や国立公文書館があります。また駅名の由来となった竹橋もあります。竹橋は徳川氏の関東入国以前からすでに存在していた橋です。現在清水濠に架かっているアーチ型の石橋、竹橋は平成5年(1993年)に補修されたものになります。

※スタンプは「東京メトロ竹橋駅(出口1a)より平川門交差点」付近で獲得できます。