立科芦田宿から長和町和田宿を繋いだ歴史や文化に触れ・楽しむ中山道街道サイクルロゲイニングになります。
ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「73186」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。
立岩の駒形岩
長野県小県郡
立岩の名の由来となっている駒形岩は依田川の岸に立ち、彫り込まれたようにくっきりと馬の姿がついている。防人に召された父を訪ねて、幼い兄妹が馬に乗って立岩までやって来たが、霧で前方を見失い高さ数十メートルもある岩のいただきから馬もろとも依田川に転落してしまった。
兄とその馬は命を落としたが、不思議なことに、傷ついた白い馬に抱かれた妹はけがひとつなく河原に倒れていた。この時から依田川の岸に立つ岩はだに今までなかった駒形がつき、妹は防人から帰郷の旅路を急ぐ父とこの場で再会をはたす…
古町豊受大神社(おたやさん)
長野県小県郡
豊受大神宮は、古町下町に鎮座し、祭神は豊受姫大神を斎き祀る。
勧請年代は未詳であるが、社伝によると、人皇五十四代仁明天皇の承和元年(西暦834)八月、皇女久子内親王を伊勢の神宮の斎宮に立てさせられ、依田の庄は、この宮様の院領となったことが歴史に現れている。
笠取峠の松並木
長野県北佐久郡
この峠道は、近世五街道の1つ 中山道 の笠取峠である。徳川政権は、関が原の戦い後の1601年東海道に伝馬制を実施し、翌7年には中山道にも着手した。
慶長9年、幕府は諸街道の改修、一里塚の設置とともに街道筋に松や杉を植えて並木をつくらせた。
笠取峠は雁取峠とも呼ばれ、1597年に設けられた芦田宿と、およそ1里半(約6km)の距離を隔てた長窪宿の間にある。
津金寺
長野県北佐久郡
古代東山道沿いに位置する東信濃の学問の拠点として、学僧の養成をさかんにしていた場所で、談義所の名としては、現在日本で最も古い天台宗の談義所です。大宝2年(702)大和薬師寺の僧行基による開基のお寺。
現在は春の桜、カタクリほか野草が咲き乱れる花の寺としても知られています。
芦田宿本陣
長野県北佐久郡
中山道六十九次のうち江戸から数えて二十六番目の宿場、難所であった笠取峠の東の入り口でもあった。
1800年に建て替えられた旧芦田宿本陣は当時の面影を色濃く残しなお現存しており、200年を超える客殿は長野憲法に指定されております。
茂田井一里塚跡
長野県佐久市
一里塚(いちりづか)は、江戸の日本橋を起点として、主要な街道の側に1里(約3.927キロメートル)毎に設置された塚である。街道を往来する旅人の道標となった。
大庭史跡公園
長野県北佐久郡
縄文中期から平安時代にかけての住居跡が確認された複数気にわたる遺跡
松尾神社
長野県小県郡
京都の松尾大社を総本社とする神社。
笠取峠の東側に鎮座しています。
大山咋神を祭神に祀っています。
長久保宿歴史資料館・一福処濱屋
長野県小県郡
貴重な明治時代初期の大型旅籠建築
長久保宿は中山道の宿場町、難所である笠取峠を控え善光寺へと続く北国街道、諏訪地方へ結ぶ大門道が分岐する交通の要衝であったことから40軒以上の旅籠がある大きな宿場町でした。江戸方の竪町と京方の横町がL字型に接続する宿場町としては珍しい配置になっています。
明治初期に旅籠として建てられた「濱屋」は山間部の旅籠建築に多く見られる「出桁造(街道に面した側の1階より2階を突き出させた建て方)」になっていますが、江戸時代の街や建築より軒が高く、また本来は延焼防止目的であった卯建(うだつ)も意匠としてのみの役割となっています。
旅籠は開業することなく、長い間住居として使われてきましたが、平成12年(2,000年)町に寄付され、現在の「長久保宿歴史資料館」として資料の展示と、内部も一部公開されています。
浮世絵 落合大橋
長野県小県郡
旧中山道街道に使用されていたとされる道にかかる落合大橋。和田宿までの浮世絵の現地として残っている