菊池のしらべ2023 第5回デジタルスタンプラリー

熊本県

※本ツアーは開催前です。

菊池のしらべ2023 第5回デジタルスタンプラリーのイメージ

 9月24日に始まったスタンプラリーも、今回がいよいよ最終回です。
 菊池市には、この地域を拠点として中世時代のおよそ450年間、九州を舞台にして活躍した菊池一族の足跡がいたるところに残されています。
 特に、16代当主武政公の時代に、本城を深川から隈府に移したときに本格的に始められ、21代当主重朝公の頃に完成したと伝えられる隈府の菊池本城城下町には、時代を経てもなおそのエッセンスを色濃く残しています。
 このスタンプラリーは、まちなかに残る菊池一族の足跡を紹介して、その魅力をご参加の皆様に知っていただくためのものです。
 各スポットのあいだにも楽しい場所がいっぱいです!
 コンパクトな企画ですので、気軽なおさんぽ感覚でお楽しみください!
 コンプリートで菊池一族オリジナルグッズがもれなくもらえるほか、抽選で菊池市の特産品も当たります。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「96065」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

菊池松囃子能場

熊本県菊池市

菊池松囃子能場のイメージ

 毎年10月13日、菊池神社の秋の例大祭で奉納される菊池の松囃子(御松囃子御能)。その舞台となるのが、「菊池松囃子能場」です。県の有形民俗文化財に指定されています。
 御松囃子御能は、菊池一族15代武光が征西将軍宮懐良親王をお慰めするために始めたとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。天下泰平と国家安穏の願いを込めて舞われます。
 能場の向かいには、親王お手植えと伝えられる樹齢600年を超えるムクノキ「将軍木」が枝を広げています。県指定天然記念物で、将軍とは、懐良親王=征西将軍のことです。
 現在の能場は江戸時代の終わりごろに建て替えられたものを改修しながら使用されています。当時の様子を伝える「嶋屋日記」によると、能舞台の老朽化が著しく、建て替えを細川藩に願い出たところ、藩財政が厳しい時代(当時の藩主は細川重賢)だったこともあり、「娯楽のための施設など不要」と許可されなかったそうです。ところが、当時の隈府の住民たちは、「隈府の能舞台はただの娯楽施設ではありません、地域の歴史を伝えるとても大切な建物なのです。」という主旨で、再度建て替えを願い出ました。その結果、藩から「それでは、通常より少し小さめなら。」という条件付きで許可されたとのことで、他の能舞台より小さめなのは、そのような理由によるものです。

媛女渕

熊本県菊池市

媛女渕のイメージ

 将軍木とわいふ一番館の間にある路地の突き当りから下をのぞくと、迫間川が流れています。そこの少し上流には深い渕があり、それを「媛女渕(ひめじょぶち)」といいます。
 菊池本城が陥落した時、敵に追い詰められた菊池のお姫様たちが、「捕らわれて、生き恥をかくよりは」と、渕をめがけて身を投げたことから「媛女渕」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。それで、今でも崖下の川底の石には、お姫様が入ったという穴がえぐり取られたように開いているといわれています。
 わいふ一番館から渕へ向かう少し手前の三叉路には、「親子地蔵」が祀られており、ここにも悲話が残されています。昔、隈府の上町のとある家に奉公していた少女がいました。ある日、主人一家は少女一人を残し、お宮参り(祭りとも)に行ってしまいました。置いてきぼりにされた少女は腹を立て、主人の家に火をつけてしまいます。そのせいで町は大火事になり、少女は役人に捕らえられました。当時、放火は大罪で、少女も媛女渕の横の上河原で火あぶりの刑に処せられることとなります。それを崖の上から見ていた母親も、「火がついた、火がついた」と叫び、悲しみのあまり、そのまま媛女渕へと身を投げたのです。母娘を哀れんだ人たちが、後に地蔵を建てて供養をしたと伝えられています。昔は親子地蔵の名のごとく親子二体が寄り添っていましたが、いつの頃からか子どもの地蔵は行方が分からなくなり、現在は一体のみが祀られています。
 また、媛女渕をのぞむこの東西に走る道は、菊池一族が治めた中世には「鷹匠小路(北小路)」と呼ばれていました。小路の西の端には、菊池三十三観音の三十三番札所「蔵六庵」が建っています。

寺の多い町並み(知足寺(通称:極楽寺)前)

熊本県菊池市

寺の多い町並み(知足寺(通称:極楽寺)前)のイメージ

 隈府の町並みを歩いていると、とてもお寺が多いことに気づかれませんか。ここ知足寺(通称:極楽寺)もその一つ。近くには第2回のSpotにもなり、この場所からも見事な大楠が見える妙蓮寺や第3回のSpot築地井手の流れのわきには檀林寺もあります。
 どうしてこのように、数多くの寺が残っているのでしょうか。
 天文18(1549)年にフランシスコ・ザビエルにより、キリスト教が日本に伝わりました。天下統一のため、布教と貿易を結びつけることを考えた織田信長の庇護のもと、その教えは全国に広がっていきました。しかし豊臣秀吉の時代には異教禁止、徳川幕府の時代になると仏教関係者の意見を取り入れ禁教政策を進めました。
 キリスト教に対する危機感を高めることとなった最大の出来事は、寛永14(1637)年に始まった切支丹による大規模な反乱である天草・島原の乱です。この乱の平定以後、幕府はますます禁教政策を強化し、切支丹への弾圧と迫害が明治まで続くこととなります。寛永17(1640)年には宗門改と寺請制度が制定され、全ての国民はいずれかの宗派の寺に所属し、檀家とならなければなりませんでした。また、人々が寺を自由に選択することは檀家制の障害となるため、「一家一宗旨一寺」を守らせるようにしたのです。
 今でいう戸籍業務を担い、キリスト教禁教のため地域の住民すべてを把握することになった寺々は、檀那寺として栄えていきました。このような事情から、今でも隈府の町中には数多くの寺々が残っていると考えられます。

菊池の龍伝説(白龍神輿庫)

熊本県菊池市

菊池の龍伝説(白龍神輿庫)のイメージ

 菊池市には、龍にまつわる伝説が多く残されています。なかでも白龍は、喜びや恵みをもたらす吉兆とされ、ここ菊池でも良いことが起こる予兆として出現したと伝えられています。
 ここ神輿庫には、毎年8月に開催される夏まつり「菊池白龍まつり」に登場する白龍(雄龍、雌龍、若龍、子龍)が保管されています。まつり当日は、この4体の白龍が外へ飛び出し、その雄姿を披露、所狭しと勇壮な演舞を繰り広げます。
 今年は、辰年です。菊池に残るたくさんの龍のご利益にあやかり、飛翔の年となりますように!!

【伝説1】今から約950年前の延久2(1070)年、菊池一族の初代とされる藤原則隆が菊池の地を踏みました。則隆は、新しい領主として大宰府からやってきたのです。現在の菊之池のほとりで、こんこんと湧き出る水を口にした則隆の眼前に白龍が現れ、天高く昇っていきました。千年に一度現れ、幸せを呼ぶといわれる「吉兆龍」が、則隆をお出迎えしたのです。この地をいたく気に入った則隆は、「菊池」と名乗り、ここで暮らすことを決めたのでした。ここに菊池における菊池一族の歴史が始まります。

【伝説2】菊池市龍門の竜門ダムの麓には、「神龍八大龍王神社」と呼ばれるパワースポットがあります。境内には、「天正三年(一五七五)五月六日、世界の平和を祈念して、この地に鎮座された」と書かれており、あたかも時が止まったかのような静粛な空気が漂います。すぐ下を流れる迫間川には二つの渕があり、上の渕を「雄龍の渕」、下の渕を「雌龍の渕」と呼んでいます。その昔、ここに雄龍と雌龍が棲んでいたと伝えられています。

【伝説3】菊池渓谷の散策コースにも、龍が棲んでいたといわれる場所があります。その名も「竜ヶ渕」。吸い込まれるようなコバルトブルーの渕は、今でも龍が棲んでいてもおかしくないと思わせるほど神秘的な深い色を湛えています。

【伝説4】今年、温泉湧出70周年を迎える菊池温泉。前回のSpot「菊池温泉1号井」でもご紹介しましたが、この温泉掘削にも白龍伝説が残っています。当時、隈府商工会長であった村川信彦氏は、数々の困難にも負けることなく温泉掘削に挑み続けていました。そんなある夜、会長は不思議な夢を見ます。城山の高台から下を見ると、なんと銀の鱗を光らせた白龍が登ってくるではありませんか。その後方に立つ美女が「あれは親龍です。後ろの子龍をごらんなさい。」と指さす方を見ると、たくさんの子龍が湯煙の中で戯れています。これこそ神様のお告げと決意を新たにした会長は、ますます温泉掘削に向けて励まれます。その努力が実り1954年11月3日、めでたく仮設浴場において浴場開きを迎えることとなったのです。ここから菊池温泉の歴史が始まりました。