「楠公さん」ゆかりの地を巡るデジタルスタンプラリー

京都府

※本ツアーは開催前です。

「楠公さん」ゆかりの地を巡るデジタルスタンプラリーのイメージ

武将・楠木正成公と正行公のゆかりの地を巡ってスタンプを集めよう!
獲得スタンプの数に応じた特産品が当たる抽選に参加しましょう!

詳しくは、河内長野市ホームページをご確認ください。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「62787」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

楠木正成公の楠

京都府八幡市

楠木正成公の楠のイメージ

 建武元年(1334)に楠木正成が必勝祈願参拝の際に奉納したと伝わる樹齢700年に迫るご神木。京都府指定天然記念物。『洛陽名所集』によると、「戦勝軍利を祈り、楠千本を八幡山にうへけり」とある。

護国寺跡(石清水八幡宮境内)

京都府八幡市

護国寺跡(石清水八幡宮境内)のイメージ

 建武元年(1334年)9月、石清水八幡宮の境内にあった護国寺の再建供養が行われた際、後醍醐天皇が臨席し、その警護に楠木正成、足利尊氏、名和長利など、のちに敵味方に別れ戦うこととなる名だたる武将が揃って警護を行った。

石清水八幡宮御本殿

京都府八幡市

石清水八幡宮御本殿のイメージ

 楠木正成死後の建武4年(1337年)12月、新田義貞と北畠顕信は楠木正成一族の兵も集め石清水八幡宮に籠城。対抗して高師直が出陣し、籠城から4ヶ月、ついに高師直は石清水八幡宮を火攻めにし、石清水八幡宮の本殿や建造物群が焼失した。

楠木正成・後醍醐天皇モニュメント(笠置町産業振興会館内)

京都府相楽郡

楠木正成・後醍醐天皇モニュメント(笠置町産業振興会館内)のイメージ

 鎌倉時代の終わり、一三三一年に幕府と対立した後醍醐天皇が、京都から難を逃れ、笠置山を要塞として行在所を置きました。
 こちらのモニュメントでは、倒幕の命を受けた大和・山城・河内・三河の兵が笠置山に参集し、楠木正成も召されて、天皇に味方する約束をした様子を再現されています。
 この後正成公は後醍醐天皇に尽くし、後醍醐天皇が鎌倉(北条)幕府倒幕をスローガンとして蜂起した「元弘の乱」序盤の「笠置山の戦い」が繰り広げられたのが、ここ笠置町内の笠置山・笠置寺と云われています。

※毎週月曜日は休館日(祝日のときはその翌日)

太平記元弘の乱 笠置合戦モニュメント

京都府相楽郡

太平記元弘の乱 笠置合戦モニュメントのイメージ

 JR笠置駅を出ると「笠置山の戦い」を再現したモニュメントがあります。
 向かって左側、木戸口越しに弓矢を構えるのは足助重範という弓術の名人です。
 こちらのモニュメントでは、笠置山の行宮に立てこもる後醍醐天皇を守るため、防衛の最前線で敵となる鎌倉(北条得宗家)幕府軍の攻撃を勇敢に迎え撃つ様子がリアルに再現されています。
 戦いの舞台になった笠置山には、「ゆるぎ石」という岩が残されており、武器として使われた岩の一部だと伝えられています。笠置山には現在でも多くの巨岩・奇石があり、古い昔の記憶を伝えています。

泉穴師神社

大阪府泉大津市

泉穴師神社のイメージ

 創建について確かな記録はありませんが、社伝によれば白鳳年間(650~654年)ごろに創建したといわれます。『延喜式』神名帳に記載のある神社(式内社)です。『延喜式』玄蕃寮には新羅からの使者にふるまう神酒を醸造するための稲を納める社として記されており、古代においては護国に対し神威ある神社として扱われていたと考えられます。また、平安時代ごろに泉穴師神社の神宮寺として、薬師寺が建立されました。正平6年(1351年)の史料によれば、後村上天皇より綸旨が出され、薬師寺が祈祷をおこなうなどしたことが記されており、南朝との関係が深かったことがわかります。古代から中世には、和泉国の二ノ宮として大きな勢力を持った有力な神社であったと考えられます。
 本社本殿、摂社住吉神社本殿、摂社春日神社本殿は、室町建築・桃山建築の風格を持った美しい社殿で、国の重要文化財に指定されています。なかでも、摂社住吉神社本殿は、文永10年(1273年)の建立で、府内最古の神社建築と言われています。本社本殿及び摂社春日神社は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼の命により片桐且元を奉行として改築したものです。本社本殿は一間社流造を二棟並べて合いの間でつなぐという連結社殿の古い形式ですが、このような社殿の形式は主祭神が二座祀られていることに由来しています。現在の主祭神は天忍穂耳尊と栲幡千々姫命の二柱です。
 明治41年(1908年)の神社合祀の際に、近隣の豊中村加茂神社・厳島神社・春日神社・福神社・事平神社、虫取村八坂神社、我孫子村菅原神社、板原村菅原神社あわせて8社を合祀したことにより、近隣7カ村の氏神として信仰の対象となっています。
 拝殿も本社本殿と同時期の建立であり、その前に立つ2基の鳥居とともに市の指定文化財です。また神社の杜にある高さ30mにも達する11本の大きなクスノキは市の指定天然記念物です。
 
 本社本殿の正面に据えられている石灯籠は、楠木正成が元弘元年(1331年)に挙兵した際、「武運長久」を祈願し摂河泉の大社に奉献したもののひとつと伝わります。
 普段は立ち入ることができない場所に設置されているため、元旦などの特別な日にのみ拝殿横の門が開かれ、本社本殿ほか社殿に参拝する際に、石灯籠を見学することができます。

西葛城神社(楠神社)

大阪府貝塚市

西葛城神社(楠神社)のイメージ

 明治43年(1910)、深谷神社などこの地域の神社を合祀したもので、大国主命、菅原道真を祭神とする。この地にはもともと楠本神社と呼ばれる社があったが、楠木正成が湊川で戦死した際、この地の豪族松浦氏がこれを悼み、かたわらに楠神社を設立したと伝えられている。

大枝公園周辺

大阪府守口市

大枝公園周辺のイメージ

 当地は南朝の勢力下であり、小高瀬庄(現「高瀬町」)は南朝方の観心寺の庄園であり、支配地となっていました。
 まだまだ当地は南朝の勢力が強かったにもかかわらず、南朝の支配下にあって、何故か北朝の年号を使用したと言われており、この時は南寺方(スポット地よりやや南下)に北朝の勢力が侵入していたということを示すものであり、南北入り乱れ、争奪し錯そうしていたことがうかがわれます。それも正平24年(1369年)に当地域を根拠地にしていた楠木正儀が北朝にくだると、もう北朝に抵抗する者がなくなり、南朝の勢力は衰退しました。
 スポットとして現存するものは残っておりませんが、現在は市民の憩いの場の公園となっており、時代の背景を感じていただければと思います。                       「ふる里守口を訪ねて」参考

茨木神社

大阪府茨木市

茨木神社のイメージ

 楠木正成が摂津守護に任じられた際に、摂津守護所を建てた場所だと考えられています。

恩智左近の墓

大阪府八尾市

恩智左近の墓のイメージ

 恩智左近満一は恩智神社の社家の出で、この地の豪族として恩智城を築き、楠木正成方に味方した八臣の一人とされる。 湊川の戦の後は、その子正行を助けて南朝方を守ったが不幸にして延元二年(一三三七)七月熱病のため急死した。
 傍の墓碑十六基は明治十年の西南戦争に官軍として従軍し、戦死した中河内近在の人々の墓である。

神宮寺小太郎塚

大阪府八尾市

神宮寺小太郎塚のイメージ

 神宮寺小太郎は当地の豪族で、神宮寺城を構え恩智左近満一とともに楠木正成に属し、その八臣の一人とされる。 正成湊川で戦死後はその子正行に従い四條畷に出陣して討死し、そのとき北朝方により神宮寺城も落ちた。塚はもとは古墳時代後期の古墳である。

楠妣庵観音寺

大阪府南河内郡

楠妣庵観音寺のイメージ

 本市の東部にある楠妣庵観音寺は、楠木正成夫人が夫と子の戦死後に出家し、草庵を結んで菩提を弔ったのが始まりといわれています。夫人の没後この庵を観音寺と改め、楠木家の菩提寺とされたと伝わっています。

 初冬の季節には、紅葉で美しく飾られます。
知る人ぞ知る紅葉スポットとして、密かに人気を集めています。

 歴史と自然が共存する楠妣庵観音寺に是非訪れてみてください。

観心寺大楠公(楠木正成公)像

大阪府河内長野市

観心寺大楠公(楠木正成公)像のイメージ

・観心寺の子院である中院は、楠家菩提寺であり8歳から15歳まで仏教を中心に学んだ学問所。師は瀧覚坊と云われる。
・観心寺の寺紋は菊水。
・楠木正成により建立された、金堂(国宝)、建掛塔(重文)。
 楠木正行により建立された、訶梨帝母天堂(重文)。
 また楠木正成公書状(重文)、伝楠木正成所用腹巻(重文)を所蔵。
・境内に楠公首塚と後村上天皇陵がある。

多聞丸(楠木正成公)石像

大阪府河内長野市

多聞丸(楠木正成公)石像のイメージ

 幼少期の多聞丸(楠木正成)が、兵法を学ぶために観心寺から大江時親邸まで休まず通ったとされる「楠公(なんこう)通学路」。その逸話をもとに2018年に2人をモデルにした石像が造られました。

最勝寺

大阪府松原市

最勝寺のイメージ

 楠木氏の一族であった和田氏の家臣「城連寺左衛門安明」が「安明寺」建立したが、火災等の影響で、現在は最勝寺境内の小堂に移転している。最勝寺山門の北側には、楠木・和田氏の菊水の紋を刻んだ蟇股を持つ門が建ち、参道ごしに宝形造の本堂や墓地、本堂内には、後醍醐天皇や楠木正成などの位牌も安置されている。

楠木正行像

大阪府大東市

楠木正行像のイメージ

 昭和12年6月、当時の四條畷村長八代氏が発起人となり小楠公会によって、元東京美術学校教授黒岩淡哉氏によって製作されました。18年に戦時供出されましたが、47年に田伐兼松氏によって再建されました。銅像は四条縄手合戦前に吉野の如意輪堂の壁に辞世の句を書き終えた姿だといわれています。像は北方を向いており、湊川の戦いを前に楠木親子の今生の別れとなった西国街道桜井駅を向いているといわれています。

楠水龍王

大阪府箕面市

楠水龍王のイメージ

 楠木正成は勅命により兵庫・湊川へと出陣しました。それは死を決意しての悲壮な出陣でした。戦場に同行をせがむ正行を諭し、名残を惜しみつつ桜井の地(島本町)で決別しました(桜井の別れ)。
 楠水龍王とは小野原にある井戸のことで、延元元年(1336)兵庫・湊川への行軍の際、道街道の途中の小庵で正成が大いにその冷たい井戸水を賞味したことから、この井戸は楠公の井戸とも呼ばれるようになり、この話を聞いた旅人たちが必ず立ち寄り、愛飲したと伝えられています。

はびきのビジターセンター

大阪府羽曳野市

はびきのビジターセンターのイメージ

 羽曳野市の玄関口である近鉄南大阪線「古市駅」で下車、改札を出て左側の階段を下りてすぐ、日本遺産「竹内街道」沿いのはびきのビジターセンターで来訪者をお迎えします。
 世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」、日本遺産「竹内街道」をはじめ、寺社の歴史遺産パンフレット等をご用意しております。
 ワインや梅酒といった特産品、古墳グッズなどのお土産も販売していますので、旅のはじまりとお帰りの際にもぜひお立ち寄りください。

大雄寺の碑

大阪府高石市

大雄寺の碑のイメージ

 「大雄寺の碑」は南朝二代天皇後村上天皇の外護による建立と伝えられており、南朝からの帰依が厚い寺でした。また高石地域は南北朝時代の内乱の最前線であり、大雄寺建立は政治的な意味があったと考えられております。南北朝内乱のシンボルの1つです。

葛井寺

大阪府藤井寺市

葛井寺のイメージ

 正平2(1347)年9月17日の藤井寺合戦については 『太平記』巻二五に「藤井寺合戦事」と題して詳細な記述があり、楠木正成が湊川の戦いで客死した後も息子の正行・正時・正儀は戦いを続け連戦連勝、ここ藤井寺においても得意の秘策を練って奇襲をかけ、十倍の勢力を持った幕府側の細川顕氏勢に大勝したと云われています。この時『非理法権天』の菊水旗を松の木に立て掛けたとの言い伝えから【旗掛けの松】として現在まで残されてきました。
 この松の木(三鈷の松)は珍しく三葉の松葉が現れ正成の三人の息子のように、力を合わせ固く団結すればどんな困難でも打ち勝つことができるとし、不思議な力が授かると語り継がれ珍重されています。
 『非理法権天』の菊水旗や楠木正成・正行親子、新田義貞等から奉納された大般若経は、葛井寺の寺宝として大切に守られています。
 葛井寺はこうした繋がりから『楠公史跡河南八勝』のひとつにもなっています。

往生院六萬寺

大阪府東大阪市

往生院六萬寺のイメージ

 平安時代から浄土信仰の篤いお寺として栄え、夕陽を観じて極楽往生を誓願する日想観が修されていました。南北朝時代の楠木正行の墓所があります。
 平安時代後期に記された「拾遺往生伝」によれば、開基となる川瀬吉松公が告夢と共に訪れた念仏聖である安助上人の指示により、荒廃した六萬寺(ろくまんじ)の一帯の地に立てたお堂が、往生院(おうじょういん)の創建となっています。
 安助上人は、「當天王寺之東門、定知極樂東門之中心也、加以西天迎晴夕日可觀」として、夕陽を観じての五念門を日々修され、往生の素懐を遂げられました。以来、往生院は極楽往生を願う人々の信仰を集め栄えました。
 また、往生院は、南北朝時代に南朝方として活躍した楠木正成公の嫡男である楠木正行公との縁が深く、正行公の最後の戦いとなる四條縄手の合戦においては本陣となり、陣没後の胴塚が墓所として現在まで祀られています。 
※楠木正行公墓所への参拝並びに御朱印は072-981-2597まで要事前連絡

光平寺

大阪府泉南市

光平寺のイメージ

 光平寺は、発掘調査によって、その創建は平安時代後期まで遡ると考えられる寺院です。戦国時代は根来寺の末寺として広大な寺域を有していましたが、天正年間、信長・秀吉の紀州攻めの際焼失し、その後再建されたと伝わります。緑の寺庭の奥に静かに佇む南北朝時代の五輪塔は泉南市の歴史を語る上で貴重な文化遺産です。現在、毎月第1日曜日10時~16時に開寺されます。ご本尊の大日如来におまいりし、御朱印もいただけます。ただし、事前に問い合わせが必要ですのでご注意ください。

大雄寺の石碑

大阪府泉南市

大雄寺の石碑のイメージ

 大雄寺の境内には、いくつかの石碑が肩を寄せ合うように立っています。中でも向かって左端に立つ石碑には、如来を表す大きな梵字がひときわ大きく刻まれ、梵字の下には「六十六部功 正平廿二年十月卅日」と記されています。
 正平22(1367)年10月30日とあることから、南北朝時代に造られた石碑であることがわかるのですが、注目されるのは「六十六部功」とあることです。
 六十六部とは六十六部の「法華経」を書き写し、全国の霊場に一部ずつ納めていく修行のことをさし、このような修行は遅くとも鎌倉時代にはじまり、江戸時代頃まで盛んに行われていました。その功績を称えて各地に記念碑が建てられていますが、それら中でも大雄寺に残るものは西日本では最も古く、全国的にみても5番目に古い貴重なものなのです。

四條畷神社

大阪府四條畷市

四條畷神社のイメージ

 1890年(明治23年)創建、小楠公墓所からまっすぐ東に突き当たった飯盛山麓に所在します。楠正行、正時ほか24名の将士が祀られています。
 境内には正成が湊川の決戦に向かうにあたり、西国街道の櫻井の駅で正行に今世の別れを告げながら短刀を手渡す場面「櫻井の別れ」を表した父子像も見られます。

小楠公墓所

大阪府四條畷市

小楠公墓所のイメージ

 楠正行の死後80年ほどして、彼の霊を弔うために小さな石碑が建てられ、左右に楠が植えられました。この2本は成長して1本に合わさり、石碑を包み込んでしまいました。樹齢600年以上に及ぶこの楠は大阪府指定天然記念物になっています。

和田賢秀の墓

大阪府四條畷市

和田賢秀の墓のイメージ

 楠正成の甥にあたり、楠木一族の中でも武勇の誉れ高い和田賢秀は、正行らが自刃した後、高師直の陣に潜入していたところをかつて味方であった湯浅本宮太郎左衛門に討たれました。討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、土地の人々は賢秀の霊のことを歯噛様(はがみさま)、転じて歯神様として崇めるようになりました。

史跡桜井駅跡史跡公園

大阪府三島郡

史跡桜井駅跡史跡公園のイメージ

 延元元年(1336年)、大軍を率いて京に攻め上る足利尊氏を迎え撃つべく兵庫へ向かった楠木正成は、この「湊川の戦」が自分の最期になることを悟り、この桜井駅で幼い我が子正行に「自分が討ち死にしても降参はしないでほしい。一族が一人でも生き残れる限り、足利と戦ってほしい」と伝え訣別した、太平記「桜井の別れ」のクライマックスの舞台です。
 史跡桜井駅跡史跡公園は国史跡であり、楠木正成が立てかけたと伝わる「旗立て松」(別名「子別れの松」)の幹があるほか、近衛文麿、東郷平八郎など多くの著名人の記した「桜井の別れ」にちなんだ碑が敷地内にならんでいます。

若山神社

大阪府三島郡

若山神社のイメージ

 創建は古く、大宝元年(701年)に行基僧正が勅命にて勧請し、南北朝時代には楠木正成が正行との訣別の際に重臣を参拝させたと伝えられます。
 広く、緑ゆたかな社叢は大阪府天然記念物に指定され、春の桜や秋の紅葉は、それぞれ観光スポットとして定評があります。また、太閤道をはじめハイキングコースとしても知られており、お参りするウォーク客が多くあります。

持尾城跡

大阪府南河内郡

持尾城跡のイメージ

 赤坂城の支城のひとつで、楠木正成と共に戦った平岩氏が平石城とともに築いた山城跡。平石城と相対して大和から平石峠を越えてくる敵軍の守備にあたったと伝えられています。逆茂木(さかもぎ)を並べた中性の城塞跡を留めています。展望がすばらしく、晴れた日には淡路島まで見渡すことができます。

平石城跡

大阪府南河内郡

平石城跡のイメージ

 赤坂城の支城のひとつで、府指定の史跡になっています。この地の豪族平岩茂直が元弘元年(1331年)楠木正成の赤坂挙兵に応じてこの城に立てこもり、北条方と戦い戦死。その後正平14年(1359年)楠木正儀がこの城を固め、足利勢と戦いました。平井城址碑分は、寛政12年(1800年)にできたもの。

弘川城跡(陣屋山城跡)

大阪府南河内郡

弘川城跡(陣屋山城跡)のイメージ

 赤坂城に攻め寄せた賊軍が築いた山城跡。正平15年(1360年)楠木軍の配下にあった隅屋与市がこの城で防戦するも、戦に敗れて、弘川寺境内にて戦死。

楠公誕生地

大阪府南河内郡

楠公誕生地のイメージ

 楠木正成公生誕の地という伝承が残る場所。下赤坂城跡(赤阪城跡)から約500m、上赤坂城跡(楠木城跡)から約2kmと山城とのセット関係をうかがわせる場所に位置している。

千早城跡(案内板)

大阪府南河内郡

千早城跡(案内板)のイメージ

 金剛登山口バス停から約560段の石段を上り切った場所び位置しており、元弘2年(1332)年に上赤坂城址とともに中心的な山城として築城された。激しい籠城戦でも落城しなかった城として知られている。

湊川神社

兵庫県神戸市

湊川神社のイメージ

 南北朝時代の名将、楠木正成公をお祀りする神戸の名社。
 正成公は、智・仁・勇の三徳を備え、聖人とも仰がれた武将で、生涯を正義と忠誠を以て後醍醐天皇に尽くされました。
 殉節地(境内の北西隅)は、延元元年(1336)ここ兵庫湊川で、数万の足利軍を、数百騎の軍勢で迎え撃ち、激戦の末、一族で自刃された場所で、国指定の文化財史蹟です。
 楠公墓所(境内南東隅)は、後世、水戸の黄門さま(徳川光圀公)が正成公の墓碑を建てられました。墓碑「嗚呼忠臣楠子墓」は光圀公の直筆です。
 宝物殿には、国指定重要文化財の「大楠公御真筆の法華経奥書」や「段威腹巻」をはじめ、正成公ゆかりの書画や武具、合戦の資料などが展示されています。
 楠公墓所には吉田松陰や坂本龍馬、西郷隆盛など数々の幕末の志士らがこぞって訪れました。幕末のパワースポットともいえます。

廣嚴寺(楠寺)

兵庫県神戸市

廣嚴寺(楠寺)のイメージ

 楠寺(くすのきでら)の愛称で知られている廣嚴寺(こうごんじ)は後醍醐天皇の勅願で1329年に開山し、開祖は元僧俊明極(しゅんみんき)和尚、本尊は薬師如来です。臨済宗南禅寺の末寺になり、正式には医王山廣嚴宝勝禅寺(いおうざんこうごんほうしょうぜんじ)と言います。創建当時は七堂伽藍が完備され、四丁にわたる寺域をほこっていたと伝えられています。
 1336年、湊川の戦いの前には、楠木正成がこの寺で禅問答をし、大いに悟るところがあり、戦いに臨んだといわれています。一方で、この寺は湊川の戦いの翌年、赤松範資が建立したのだと主張する説もあります。
 その後しばらく寺は荒廃しましたが、江戸時代延宝年間(1673~1680 年)に、大和から千巖宗般(せんがんそうはん)がこの寺にきて再興しました。千巖は熱烈な楠木正成(大楠公)のファンで、現在の湊川神社にある大楠公の墓碑が建てられたのは、この千巖の努力によるところが大きいと言われています。彼は水戸藩主徳川光圀が大楠公の墓碑を建立する意志があることを聞き付けると、早速江戸小石川の水戸藩上屋敷におもむき光圀に大楠公墓碑の建立の実行を促し、1692年に完成しました。
 また、大楠公墓碑建立の際、墓碑を建てる場所に老梅があり、これをこの寺に移植したといわれ、それが境内にある「南枝の梅」です。なお、現在の梅は三代目で、水戸の常磐神社から贈られたもの(九代水戸藩主徳川斉昭(なりあき)寵愛の梅を接木したもの)です。
由緒には諸説ありますが、訪れられた際には住職に話しかけると寺周辺の歴史に関する面白い裏話を聞くことが出来るかもしれません。

亀井堂総本店

兵庫県神戸市

亀井堂総本店のイメージ

 神戸港は1868年1月1日(明治初頭)、鎖国が解かれ外国に開かれた6港のひとつです。 そのころの神戸は人口5千人ほどで余り大きな都市ではありませんでした。
しかし、外国に門戸が開かれたために、多くの新しい文化が神戸を窓口として日本に入ってきました。
 当時は船でのみ、人と物が交流していた時代です。したがって、港の近くに外国の人たちは貿易の会社や住まいを作りました。
 その面影が、港に近い旧居留地や山手の北野異人館街等に残っています。
 そこには食料や衣料・日用品等、外国人が生活をするのに必要な「物」の需要が興ります。
 それまでは日本人にとって馴染みがなく、贅沢品・高級品であったものが地元や近くの村々から集められ、多くの生活物資が神戸に集まってきました。
 砂糖・卵などや、日本人の食す習慣のなかった牛乳・牛肉もその一つです。
 神戸は貿易港として商業・造船・鉄鋼・重工業等が栄え、急激に都市化して行きました。これは商都大阪の近くに位置していたのも大きく影響していることでしょう。
 当店の創業者で「瓦せんべい」の考案者である松井佐助は、明治の初めごろ、神戸に出て来て菓子屋で奉公をしておりましたが、創意工夫に長けた性格から、日頃製造をしている菓子に飽きたらず、当時の神戸ならではの環境から入手しやすかった材料を使って改良を重ね、小麦粉だけを練って作っていた和風のお菓子を参考に、高価で他の地方では入手しにくかった砂糖・卵等をふんだんに使い、洋風の味覚を醸し出した菓子を作り上げました(同じ材料をオーブンで焼き上げると「カステラ」となります)。
 長い鎖国で、憧れの西欧文明に接したことのない庶民にとっては、このような洋風の味覚はとても贅沢で、文明開化の香りのする斬新な食べ物で、別名「贅沢せんべい」や「ハイカラせんべい」とも呼ばれました。
 その意味からすれば「瓦せんべい」は、和菓子というよりは神戸の「洋菓子」の始まりだったとも言えます。
 また、その当時、江戸幕府は大政奉還をして明治政府に政権が移行しました。 明治政府は、天皇中心の政治体制を確立するため、鎌倉時代末期に後醍醐天皇を守るため「忠君愛国」を謳い、神戸の湊川の戦いで殉死をした、楠正成を奉った「湊川神社」を造営しました。
 湊川神社へは多くの人々が参拝をし、楠公を奉りました。 そんな楠公を、新しく考案した「せんべい」に焼きつけ、自らの趣味であった古代瓦の収集にヒントを得、屋根瓦の形に整えました。これが「瓦せんべい」の起源となります。
 神戸ならではの時代背景により「瓦せんべい」は誕生し、考案した松井佐助は明治6年「亀井堂総本店」を創業しました。
 「亀井堂総本店」は、当時神戸で最も通行の多かった「西国街道」沿いに店を構えました(後に「元町通り」となり多くの商店が軒を並べる神戸の中心地になりました)。
 瓦せんべいはたちまちのうちに神戸名物としての名声を得るようになりました。
 このことは、明治23年に東京で開催された博覧会に出品された『神戸名物の「瓦せんべい」が大好評を博した』と、当時の新聞に紹介されたこと、また、菊田一夫の小説「がしんたれ」の書き出しが「亀井堂の瓦せんべいは神戸の名物である…」と始まっていることでもうかがい知れます。
 また、大正12年発行の「趣味の名物及特産3月号」(大阪・名物及特産社」)の中に「神戸の名物と云へば、誰でもが先ず第一に指を折るのが瓦煎餅である。」という書き出しで始まる綾亭子著「客足の絶へぬ瓦煎餅の龜井堂」という記事があり、当時の亀井堂総本店の人気の秘密が分析されています。 その理由は、材料の吟味に苦心していること。玄人にでも分からない程のごく僅かな差違にも妥協をせず、材料の品質を落とす事をせず、最上の優良品を用いている点が評価されていました。また、常に新鮮な商品を提供して品質を第一として目先の小欲を捨てひたすら製品の向上に腐心している結果、「瓦煎餅なら龜井堂」と世間から言われる信用を博した、と書かれています。
 創業当時から変わらぬこの精神こそが暖簾を守り続けた基盤であり、先人達の想いを継承して伝統の手焼き製法を伝承しつつ、常に時代に即した顧客満足に努力を惜しまぬ事こそが、現在の亀井堂総本店の使命とし、未来へ向けて歩み続けています。

観音寺

奈良県香芝市

観音寺のイメージ

 観音寺は、楠木正成に関する伝承や記録が残る寺院です。楠木正成の観音寺にまつわる話としては、赤坂城の戦いで破れた楠木正成が逃げている途中に敵から矢を放たれたが、観音経を入れた守り袋に当たったことにより一滴の血も流れず傷跡は無かったと言われています。この出来事に対して、楠木正成は感謝の祈りを捧げるため観音寺の本尊を拝すると、観音像の胸のあたりが血に染まっていました。以来、観音寺に祀られている本尊「十一面千手観世音菩薩」は「身替観音」として親しまれてきました。
 また、本堂の瓦や欄干、灯篭などに、楠木家の家紋「菊水紋」が施されていますので、是非一度足を運んで、楠木正成と観音寺の深い関わりを感じてください。

道の駅ふたかみパーク當麻

奈良県香芝市

道の駅ふたかみパーク當麻のイメージ

 地元農家のみなさんが一生懸命作った新鮮なお野菜や生花をたくさん販売しております。また、奈良のお土産や當麻の家のオリジナル加工品、麹の販売もございますのでぜひご覧ください。独自ブランドの「奈良県推奨米(ヒノヒカリ)も好評です。民芸風のレストランでは當麻の新鮮な素材をふんだんに使った郷土料理が楽しめます。「ふたかみうどん」などのウドン類や、「カレーライス」などの軽食をご用意しております。

信貴山朝護孫子寺

奈良県生駒郡

信貴山朝護孫子寺のイメージ

【「楠公さん」との関係】
 「楠公さん」の母が信貴山の毘沙門天に100日間お参りして「楠公さん」を身ごもったという伝説があり、朝護孫子寺の【霊宝館】には「楠公さん」の菊水の兜・菊水の旌旗が奉納されています。
【信貴山朝護孫子寺】
 醍醐天皇の御病気の際に、命蓮上人が毘沙門天王に祈願をすると、天皇の御病気がたちまちにして癒えたことで、天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は、「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。          

高取城跡

奈良県高市郡

高取城跡のイメージ

 国指定史跡であり日本三大山城の一つ。
 南北朝時代の1332年、南朝方に加担した越智邦澄によって吉野本陣の前衛として砦が築かれたのが始まりというのが通説で、以後、戦国大和で南和の最大勢力であった越智氏の重要な詰め城の一つとなります。南朝の砦として、大楠公の千早城とともに吉野の南朝を守るための城だった高取城には遺構の名前に千早城になぞらえた千早門跡という名称の門跡もあります。
 その後、豊臣秀吉の弟の豊臣秀長が大和国に100万石を超える大名として入ると、家臣の本多氏に命じて大改修され現代も残る石垣群が整備されたとされます。

光雲寺

奈良県高市郡

光雲寺のイメージ

 楠木正成が加勢した六波羅勢との戦いを繰り広げた中世の豪族越智氏が貞和2(1346)年に建立した菩提寺。越智氏は幕府に根成柿の所領を没収され、さらには北条高時が興じる闘犬の飼料供出まで求められ、憤った越智邦永が自領で六波羅の役人を殺害。その後幾度にわたり六波羅と争うことになり、楠木正成が派兵に加わったことで討たれる。境内には楠木正成によって打たれた越智邦永やその後共に南朝側として戦い、高取城築城や光雲寺を創建した越智邦澄の供養塔がある。

大杣公園良成親王墓

福岡県八女市

大杣公園良成親王墓のイメージ

 九州の統一を成し遂げた懐良親王のもとには、後村上天皇の皇子で、懐良親王の甥にあたる良成親王が派遣されました。良成親王は、征西将軍職を継承し、菊池武朝とともに鎮西管領今川了俊と激しくせめぎ合いを繰り返しましたが、元中8年(1391)年9月の八代陥落後は、筑後国の矢部を守っていた五條氏のもとに拠点を移し、大杣を御在所としました。
 良成親王が薨去された後、忠臣であった五條頼治は、その亡骸を密かに葬りました。その場所が、現在の良成親王墓だと伝えられています。五条家と村人は、その後600年間、墓を守り続けてきました。良成親王の命日と伝えられる10月8日には、墓前で大杣公園祭が執り行われ、市と地域住民で良成親王をしのんでいます。

大円寺

福岡県うきは市

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 後醍醐天皇の皇子である懐良親王は、九州平定の任を受けて、幼くして征西将軍となって五條頼元らとともに九州へ派遣されました。菊池武光をはじめとした南朝勢力の結集に成功し、大保原の戦いに勝利した親王は、大宰府に征西府を設置します。
 12年間の全盛期の後、鎮西管領の今川了俊によって大宰府を追われた親王は、高良山へと撤退して御在所を構えますが、高良山も陥落、親王は肥後菊池に移ります。懐良親王はこのころ征西将軍職を良成親王に譲ったとみられています。天授3(1377)年には大円寺に入られ、弘和3(1383)年に薨去されるまで御在所とされました。大円寺は懐良親王のお位牌を安置する寺であるとともに、星野氏累代の菩提所(ぼだいしょ)です。境内には星野村史料館があり、貴重な歴史史料が展示されています。

学びの館

福岡県八女市

学びの館のイメージ

 八女市役所黒木支所から徒歩約5分、学びの館には旧隈本家住宅、石橋忍月文学資料館、収蔵文化財展示場があります。収蔵文化財展示場は八女市黒木町にゆかりのある古文書などの歴史的資料を収集し、保存・公開する施設として建設されたもので、近世の古文書、近代議会議事録や、明治期の文芸評論家で、文豪森鴎外との「舞姫」論争を展開したことで知られる石橋忍月関係資料が収蔵されています。
 八女市黒木町をはじめとした八女東部はたびたび戦場になったこともあって、南北朝時代にまつわる伝承や行事、文化財、地名が数多く残されています。4月末にかけては良成親王お手植えと伝わる黒木のフジ(国指定文化財)が花開き、秋分の日には貴重な宝物が公開される五條家御旗祭、良成親王の命日とされる10月8日には、八女市矢部村の大杣公園で大杣公園祭が開催されます。
 八女市東部の入口となる学びの館で、南北朝ゆかりの歴史に触れ、八女市各地をぜひ訪問ください。

いわいの郷

福岡県八女郡

いわいの郷のイメージ

 筑紫君「磐井」(つくしのきみ「いわい」)は、日本の歴史書である『古事記(こじき)』『日本書記(にほんしょき)』などに登場します。西暦527年にヤマト王権の継体大王(けいたいだいおう)と対立し、火の国(現在の熊本県・佐賀県・長崎県)と豊の国(現在の大分県と福岡県東部)と連合し、反乱を起こしたとされる人物です。
 八女市吉田にある北部九州最大の古墳(前方後円墳:全長135m)である岩戸山古墳は、200年後の奈良時代に書かれた『筑後国風土記(ちくごのくにふどき)』に出てくる記載の内容から、筑紫君磐井の墓と考えられています。
 いわいの郷は、岩戸山古墳のそばに建設されており、常設展示や各種歴史講座が開催される研修室、様々な体験ができる実習實などを備え、世代を超えて人々が楽しく体験や交流が出来る施設となっています。

杣のさと

福岡県八女市

杣のさとのイメージ

 八女市黒木町から国道442号線を東に進み、黒岩隧道のトンネルを抜けると八女市矢部村に到着します。日向神ダムや桜の名所として知られる矢部村は、八女津媛神社や良成親王墓がある大杣公園など、歴史豊かな場所としても知られています。トンネルから約10分ほどで八女市矢部地区観光物産交流施設「杣のさと」に着きます。トイレ、パンフレット等で観光情報を得られる多目的ルームや、飲食スペースと物産販売所がある矢部村のおもてなしの場です。矢部川を望むテラス席があり、休憩所としてご利用できます。紅葉の名所八女津媛神社、大杣公園の良成親王墓を見学される際には、杣のさとを拠点に矢部村各地をぜひご訪問ください。近くには、全7棟平屋造りの高級感溢れる離れ宿、奥八女別邸やべのもりや、矢部中学校の旧校舎を利用して、矢部の教育沿革、民俗文化や郷土芸能、世界子ども愛樹祭コンクールに寄せられた作品等の展示を行う杣のふるさと文化館、福岡県の最高峰である釈迦岳があります。良成親王の命日とされる10月8日には大杣公園祭、11月の第3土日には、子どもたちによる八女津媛神社の浮立が公開されます。