菊池のしらべ2024〜黄昏夜市〜 デジタルスタンプラリー

熊本県

菊池のしらべ2024〜黄昏夜市〜 デジタルスタンプラリーのイメージ

今年も「菊池のしらべ2024 デジタルスタンプラリー」を開催します!!
昨年度とは、ちょっと趣向を変えての開催です。
歴史と伝統が息づく菊池の町なかを巡りスタンプを集めると、いろいろなお楽しみが待っています。
今年度は、開催日各回に必須スポットを設定。そのスポットで獲得したスタンプを会場受付で見せてくださいね。先着100名様には、美味しい菊池のお米をプレゼント。※必須スポットなど詳しくは、下記の菊池市HPをご覧ください。
頑張ってコンプリートした方は、先着でオリジナルLINEスタンプをゲットできるほか、菊池市の特産品が当たる抽選に応募できますよ!
コンパクトなラリーです。ぜひお気軽にご参加ください♪

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「03448」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

菊池松囃子能場

熊本県菊池市

菊池松囃子能場のイメージ

 毎年10月13日、菊池神社の秋の例大祭で奉納される菊池の松囃子(御松囃子御能)。その舞台となるのが、県の有形民俗文化財に指定されている「菊池松囃子能場」です。
 御松囃子御能は、菊池一族15代武光が征西将軍宮懐良親王をお慰めするために始めたとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。天下泰平と国家安穏の願いを込めて舞われます。
 能場の向かいには、親王お手植えと伝えられる樹齢600年を超えるムクノキ「将軍木」が枝を広げています。県指定天然記念物で、将軍とは、征西将軍懐良親王のことです。
 現在の能場は、江戸時代の終わりごろに建て替えられたものを改修しながら使用しています。当時の様子を伝える「嶋屋日記」によると、老朽化した能舞台の建て替えを細川藩に願い出ましたが、財政難のため許可されませんでした。それに対し、当時の隈府の住民たちは、「隈府の能舞台はただの娯楽施設ではありません。地域の歴史を伝えるとても大切な建物なのです。」という主旨で、再度建て替えを願い出ました。その結果、藩から「通常より少し小さめなら。」という条件付きで許可されました。他の能舞台より小さめなのは、そのような理由によるものです。

廣現寺

熊本県菊池市

廣現寺のイメージ

 廣現寺は、境内各所にある龍の彫刻が目を引く寺です。
 楼門では、精巧に彫られた龍が力強く参拝者を出迎えます。本堂を見上げると、梁にも見事な龍の彫刻が施され、龍の存在を感じることができます。本堂には、「龍のてすり」に導かれて上ります。
 この廣現寺に新たなシンボルとして登場したのが、本堂の天井彫刻です。昔、本堂には雲龍図があり、西南戦争で焼失したと伝わっていました。その龍が、全国でも珍しい天井画と彫刻を合体させた「天井彫刻彩色」という手法で、鮮やかによみがえりました。
 天井中央に設置された円形の彫刻の大きさは、なんと直径4メートル。その中で、2体の白龍が飛翔する姿は圧巻です。
 この天井彫刻をいつでも楽しめるようにと拝観所が設けられ、ガラス越しにその美しさを存分に鑑賞できます。歴史と芸術が融合した魅力的なスポットです。

妙蓮寺

熊本県菊池市

妙蓮寺のイメージ

 妙蓮寺は、平安時代、泗水町南田島の地に開山され、1631年に日円上人により再興された日蓮宗の寺です。その後、熊本市にある加藤清正で有名な本妙寺の末寺として、隈府へ移転したと伝えられています。隈府移転当初は、切明(下町)にありましたが、1672年8月晦日の大火により焼失し、現在地に移りました。
 この移転・再建に尽力したのが宗伝次です。宗伝次は、菊池氏が歴史の表舞台から姿を消した後も隈府に残った菊池家臣の末裔。自らの財をもって隈府の公益に貢献し、1827年に97歳で死去、墓はここ妙蓮寺にあります。
 道路に面した山門をくぐると、右手にそびえたつ巨木が目に飛び込みます。樹齢約600年といわれるクスノキで、県の天然記念物に指定されています。高さのある本堂が小さく見えるほどの迫力で、大きく枝を広げています。
 根元近くには、1876年の神風連の乱に隈府より参加した吉村義節の墓があります。義節は、県令(県の長官)襲撃の部隊長として参加しましたが敗北、自刃するも失敗、捕らえられて処刑されました。

tate.base

熊本県菊池市

tate.baseのイメージ

 「tate.base」は、築94年の古民家を活用し、地域の住民と地元の高校生たちが協力して新しい憩いの場を創り上げるプロジェクトの場です。このプロジェクトは、街中をもっと楽しくするために、何が必要かを住民と若者たちが共に考え、DIYを通じて、そのアイデアを形にする取り組みとしてスタートしました。
 古民家の改装を通して作られるコミュニティスペースは、大人から子どもまで世代を超えて誰もが楽しめる場として機能します。単なる集まりの場ではなく、子どもたちが学びや遊びを通して、地域の方々と協力し合いながら成長していく「育む場所」として、地域に根付いた新しい交流の拠点を目指しています。高校生が活動の場として利用し、イベントやDIYを行っており、参加者する学生たちは、自分たちの手で楽しめる空間を作り上げ、その成果に誇りを持ちながら、地域に貢献しています。

菊池武光公騎馬像

熊本県菊池市

菊池武光公騎馬像のイメージ

菊池武光公騎馬像は、1992年にこの「菊池市ふるさと創生市民広場」に設置されました。
 菊池一族は、1070年に赴任した藤原(菊池)則隆を初代とし、以降約450年にわたり菊池を本拠地として肥後一帯を治めた豪族(武士団)です。
 武光は一族の領地であった豊田荘(現在の熊本市城南付近)に生まれ育ち、先代武士(たけひと)の時に北朝方に奪われた菊池一族の本拠地、菊之城(深川館)を奪い返して15代当主になりました。
 1348年、九州を治めるべく父後醍醐天皇より征西将軍に任じられた懐良親王を菊池に迎えました。これをもって九州南朝方の政府である征西府が、菊池に置かれることになりました。その後、武光は親王を支え九州を南朝の勢力下に置くべく、各地で激しい戦いを重ねていきます。
 1359年、現在の久留米市高良山の眼下に広がる平野で、日本三大合戦に数えられる「筑後川の戦い(大保原合戦、大原合戦)」の勝利を経て大宰府に征西府を遷し、それからおよそ10年間、九州一円を南朝の支配下に置きました。
 その後は更なる勢力拡大を狙いますが失敗。北朝方は、幕府きっての優将とされる今川了俊を派遣します。征西府は大宰府を北朝に奪われ高良山まで陣を引きますが、南朝方の勢力を盛り返すことはできませんでした。武光はこの時の戦傷がもとで、文中2年(1373年)年に亡くなったとされています。

菊池武時公騎馬像

熊本県菊池市

菊池武時公騎馬像のイメージ

 菊池神社の東門を出てすぐの場所に菊池氏12代当主で、菊池神社の祭神の一人である武時の騎馬像が建っています。武時は、鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇の呼びかけで、九州における幕府の出先機関「鎮西探題」(福岡県博多区)を襲撃したことで知られています。
 当時、多くの武士が幕府に不満を持っていましたが、武時は幕府の勢力に対し、単独での襲撃は困難と判断、九州の有力武家の少弐氏と大友氏にともに鎮西探題の襲撃を計画しました。ところが討ち入りを時期尚早とみた少弐・大友両氏は、直前になって裏切ります。援軍を見込めない中、武時は菊池・阿蘇勢のみで作戦を決行することとなりました。決死の覚悟で突入した武時の背後を、寝返った少弐・大友軍が襲い、一時撤退を余儀なくされてしまいます。
 探題近くの袖ヶ浦で態勢を立て直すと、再突撃の前に息子の武重たちを呼び寄せました。圧倒的な兵力差で、突入すれば死ぬとわかっています。父を見捨てることができずに、ともに戦うという武重に「故郷に今宵ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらん」との辞世を書き記した直垂の袖を渡し、一族の後事を託すのでした。これが「袖ヶ浦の別れ」です。菊池市文化会館の緞帳や菊まつりの菊人形で菊池市民にはおなじみの涙を誘う場面です。
 その後、武時はわずか70騎ばかりを率いて探題館へ突入し、全員が討ち死にすることとなりました。

菊池能運公墓所

熊本県菊池市

菊池能運公墓所のイメージ

 22代能運は、21代重朝の長子で、肥後守に任じられ武運と名乗っていました。
 この頃の菊池氏は、一族の内乱や重朝の矢部幕の平(上益城郡山都町)での大敗などにより、肥後守護としての権威は失墜、勢力は弱まるばかりでした。
 1501年5月には、大叔父の宇土為光(20代為邦の弟)により守山城は攻め落とされ、武運は島原まで逃れました。この時、「不運」につながるとして「能運」と改名したとされています。
 1503年9月、島原で雌伏の時を過ごしていた能運は、家臣の城・隈部氏らと呼応し、菊池復帰の兵をあげ高瀬(玉名市)に上陸。為光勢との大激戦の末、守山城の奪還を果たしました。
 しかし、この時の傷が元で1504年2月15日、23歳の若さで亡くなります。守護職は、遺言により為邦の弟為安の孫である政朝(後の政隆)に譲られました。こうして菊池氏の直系は、能運を最後に途絶えてしまいました。

菊池温泉一号井

熊本県菊池市

菊池温泉一号井のイメージ

 菊池温泉は、今年、1954(昭和29)年の温泉湧出から70周年を迎えました。ここの1号井は、1953年に最初の掘削地点と定められた場所です。
 遠く阿蘇や杖立へ湯治に行かざるを得ず、「近くに温泉を」という隈府町民の願いをかなえるため、1924年、349人の出資により温泉掘削が始められます。しかし残念なことに、この事業は事前調査の不足や機械の力が十分ではなかったため挫折してしまいました。
 時は過ぎ1945年、敗戦の混乱の中、隈府町商工会では、今後の発展のためにも思い切って温泉掘削をという強い要望があがりました。当時の会長村川信彦氏は、熟慮の末、私財をなげうつ覚悟で掘削を決意、次々と起こる困難にも負けず意欲を燃やし続けました。
 そんなある夜、会長は不思議な夢を見ます。城山の高台から下を見ると、なんと銀の鱗を光らせた白龍が登ってくるではありませんか。その後方に立つ美女が「あれは親龍です。後ろの子龍をごらんなさい。」と指さす方を見ると、たくさんの子龍が湯煙の中で戯れています。これこそ神様のお告げと決意を新たにした会長は、ますます温泉掘削に励みました。
 その執念ともいうべき努力が実り、1954年6月26日菊池温泉掘削起工式が行われ掘削開始、数回の測温を経て11月3日、めでたく仮設浴場において浴場開きを迎えることとなったのです。この仮設浴場こそが菊池温泉の出発点であり、いつでも温泉が楽しめる温泉観光都市が誕生しました。「美肌の湯」「化粧の湯」として親しまれるようになり、今では名湯百選の一つに選ばれています。