町人文化コース

大阪市

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「天下の台所」となった近世の大坂では、活発な市場経済の中で町人たちの合理的精神がはぐくまれ学問や思想への関心が強くなりました。そして、町人たちの手によって各種の教育機関が発達。自分たちの商いのために学ぶ「実学の精神」を基本とし、その対象は、儒学から哲学や宗教学、博物学、天文学へと広がっていきました。近世の科学知識の習得が、新しい時代の扉を開いたといえます。このコースではそんな町人達の文化を淀屋橋駅から天満橋駅の間を歩くことで感じることができるコースとなっています。ウォーキングのコースにするもよし、レンタルサイクルでサイクリングのコースにするもよし、のんびり自分のペースで街歩きを楽しんでください。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「28139」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

淀屋屋敷跡

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淀屋は江戸期の大阪を代表する豪商です。初代・常安はその商才によって材木商、土木請負、運送倉庫業から、米取引、両替商と事業を拡大し、資産を成しました。徳川家の御用商人を勤め、米取引は、元禄10年(1697)に堂島に移るまで、淀屋橋の南詰めにあった淀屋の店先で行われました。この淀屋橋は、市場の便宜のために二代目个庵(こあん)が私費で架けたものです。个庵は多くの大名の蔵元になり、莫大な財産を得て、贅沢に暮らしたと言われます。

懐徳堂跡

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中井甃庵(しゅうあん)が大阪の有力町人たちと協力して三宅石庵を招き、享保11年(1726)、学問所「懐徳堂」を創設しました。幕府からも公認されました。全国から集まった学生たちは身分に関係なく論じ合い、商家勤めの学生のために遅刻や早退も許されたほど、自由な気風がありました。門下には、儒学や仏教の思想史を論じた富永仲基(なかもと)や、天文・地理から経済・歴史に至る『夢の代』を著した山片蟠桃(ばんとう)などがいました。現在の大阪大学へとつながる学問所です。

適塾

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適塾を開いた緒方洪庵は、長崎で医学を学び、大阪で最初の種痘を行うなど医者としても活躍した人です。天保9年(1838)、蘭学(オランダ語の学問)を学びたいという人のために自宅に塾を開業、5年後当地に移り、明治期を支えた福沢諭吉や大村益次郎など多くの人々を輩出しました。塾生たちは蘭書を読むために、一冊しかなかったヅーフ辞書を奪いあうように利用したので、辞書のあるヅーフ部屋は、明かりが消える間がなかったようです。 建物に隣接して史跡公園もあります。

少彦名神社

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日本を代表する製薬会社が軒を連ねる「くすりのまち道修町」。その歩みは、堺商人の小西吉右衛門が、寛永期に薬種商を開いたことに始まります。享保7年(1722)、長崎経由で輸入した唐薬種(漢方薬)を扱う業者124軒が、幕府から薬種仲買仲間として公認されるとともに、幕府が設けた「和薬種改会所(あらためかいしょ)」で、薬の検査をしました。仲買仲間たちは薬の鑑定を間違えないようにと、古代中国の医薬の神様・神農と日本の薬神・少彦名を祀るようになりました。境内のビル内には「くすりの道修町資料館」があります。

旧小西家住宅

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道修町の角に立ち、明治期の大店薬問屋の店構えを今に伝える旧小西家住宅。明治7年(1874)創業の薬種商・小西儀助商店(現コニシ株式会社)の旧社屋で、店舗と居住部から成る主家と、黒い漆喰壁の蔵があります。明治36年(1903)に建築され、居住部の土間には家族や従業員ら約50人の食事をまかなったという大きなかまどもあります(重要文化財)。内部は非公開ですが、不定期の見学会があります。

里程元標跡

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江戸時代の高麗橋は、幕府管轄の12公儀橋の中でもとりわけ格調高く、江戸の日本橋、京都の三条大橋と並ぶ天下の三名橋と言われました。大阪城と船場を結ぶ重要な橋で、西詰には橋を渡る人を役人が監視する櫓屋敷や、幕府の御触書を掲示する高札場がありました。明治9年(1876)、東詰に、主要な街道の距離計算の起点となる里程元標が置かれました。ここは京街道、中国街道、紀州街道など西日本の街道の起点でした。

釣鐘屋敷跡

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寛永11年(1634)、三代将軍徳川家光が大阪城へ来た時、大阪の町中の地子銀(じしぎん)(固定資産税)を永久に免除することを約束しました。このことに感謝して釣鐘がつくられ、時を知らせる鐘の音が町に響くようになりました。鐘楼は明治3年(1870)に撤去され、大阪府庁屋上に保存されていましたが、昭和60年(1985)、地元有志の努力によって再びもとの釣鐘屋敷跡に戻されました。釣鐘町の名前の由来にもなりました。

八軒家船着場跡

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天満橋と天神橋の間の大川南岸は、平安末期から、熊野詣の上陸地点として賑わいました。伏見から船で下ってきた人々は、ここから始まる熊野街道の陸路を進んでいきました。近世に入ってからは、豊臣秀吉や江戸期の河村瑞賢によって京・大阪間の水運が整備され、水陸交通の要所となりました。川に沿って八軒の船宿があり、この地名になったと言われています。当時、三十石船が伏見との間を行き来しました。