※本ツアーは終了しました。
9月24日に始まったスタンプラリーの4回目です。
菊池市には、この地域を拠点として中世時代のおよそ450年間、九州を舞台にして活躍した菊池一族の足跡がいたるところに残されています。
特に、16代当主武政公の時代に、本城を深川から隈府に移したときに本格的に始められ、21代当主重朝公の頃に完成したと伝えられる隈府の菊池本城城下町には、時代を経てもなおそのエッセンスを色濃く残しています。
このスタンプラリーは、まちなかに残る菊池一族の足跡を紹介して、その魅力をご参加の皆様に知っていただくためのものです。
各スポットのあいだにも楽しい場所がいっぱいです!
コンパクトな企画ですので、気軽なおさんぽ感覚でお楽しみください!
コンプリートで菊池一族オリジナルグッズがもれなくもらえるほか、抽選で菊池市の特産品も当たります。
ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「36751」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。
菊池松囃子能場
熊本県菊池市
毎年10月13日、菊池神社の秋の例大祭で奉納される菊池の松囃子(御松囃子御能)。その舞台となるのが、「菊池松囃子能場」です。県の有形民俗文化財に指定されています。
御松囃子御能は、菊池一族15代武光が征西将軍宮懐良親王をお慰めするために始めたとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。天下泰平と国家安穏の願いを込めて舞われます。
能場の向かいには、親王お手植えと伝えられる樹齢600年を超えるムクノキ「将軍木」が枝を広げています。県指定天然記念物で、将軍とは、懐良親王=征西将軍のことです。
現在の能場は江戸時代の終わりごろに建て替えられたものを改修しながら使用されています。当時の様子を伝える「嶋屋日記」によると、能舞台の老朽化が著しく、建て替えを細川藩に願い出たところ、藩財政が厳しい時代(当時の藩主は細川重賢)だったこともあり、「娯楽のための施設など不要」と許可されなかったそうです。ところが、当時の隈府の住民たちは、「隈府の能舞台はただの娯楽施設ではありません、地域の歴史を伝えるとても大切な建物なのです。」という主旨で、再度建て替えを願い出ました。その結果、藩から「それでは、通常より少し小さめなら。」という条件付きで許可されたとのことで、他の能舞台より小さめなのは、そのような理由によるものです。
集玄亭(横町足湯向かい)
熊本県菊池市
現在、菊池市原に所在する天地元水神社と、神職として代々その神社を守っている渋江家。現在の佐賀県武雄市にある潮見神社から分かれてこの地に移ってきた渋江氏は、はじめは西迫間に居し、その後横町に移りました。そして神職と同時に私塾を開き、江戸時代の菊池の文教の発展に大きく寄与しました。
この場所に現在残されている蔵造りの建物は、渋江氏が横町に本拠を置いていたころ、寛延元(1748)年に渋江紫陽が建てた私塾「集玄亭」の建物であった可能性が考えられています。これは、藩校「時習館」設立(宝暦4(1754)年)より6年も早い設立でした。享保4(1719)年生まれの紫陽は、30歳になったばかりの年に私塾を開き文教菊池の嚆矢となったのです。寛政4(1792)年に亡くなるまで23年の間、300人を超える人々を教え導きました。主な門弟には、宗伝次、池辺宗英、隈部桃伯、渋江松石(養子)などがいます。
熊耳山正観寺にある菊池氏15代武光の神道碑(亀趺の墓)の建立も、この紫陽の大きな業績の一つです。正観寺の樟の樹下にあった墓は時代とともに廃れ、江戸時代には荒れ果てていました。紫陽・松石親子はそれを憂い、菊池一族の顕彰の大きな柱として武光墓所の整備に尽力します。門弟のひとり宗伝次は、菊池一族家臣の末裔であることから神道碑建設を喜び、私財を投じてその建立を支えました。その願いが成就し安永8(1779)年、湊川神社にある正成の墓に倣って武光の墓が造られました。
私塾「集玄亭」を起こし子弟教育に尽力、文教菊池の礎を築いた功績が認められ、大正4(1915)年11月10日、従五位が贈られました。紫陽が亡くなった寛政4年から、実に124年後のことでした。
隈府の町割り(寿食堂前)
熊本県菊池市
隈府の町割り(町並み)は、時代とともに少しずつ変わっていますが、基本となる道路は菊池一族が治めた中世からあまり変わることなく受け継がれています。
中世の呼び名では、北(迫間川側)から鷹匠小路(たかしょうこうじ)、御所小路(ごしょこうじ)、中小路(なかこうじ)、南小路(みなみこうじ)が、それぞれ東西に延びていました。この4本の道は、現在もほとんど同じ形で隈府の町中を走っています。
鷹匠小路は北小路(きたこうじ)とも呼ばれ、第一鳥居から県道133号線(鯛生菊池線)を鯛生方面へ進み一つ目の信号を左折するところから始まります。右手に迫間川が流れており、そのまま道なりに進むと突き当ります。ここまでが鷹匠小路です。そこには、菊池三十三観音の三十三番札所「蔵六庵」が建っています。本尊は、十一面観世音菩薩です。
御所小路は、現在の御所通りです。御所通りは、現在は上から高野瀬、上町、中町と続き、前回のSpotにもなった菊の城本舗の先を道沿いに曲がった下町から迎町へと続いています。この通りには、古い建物が多く残り古の風情を伝えています。また、明治時代『不如帰』がベストセラーになった作家徳富蘆花の妻である愛子(旧姓:原田)の生誕地碑もあります。蘆花の『思い出の記』には、「妻籠(つまごめ)の里」として隈府が記されており、町を一望する城山公園には徳富蘆花文学碑と愛子の遺髪を納めた髪塚が仲良く並んで建っています。
このSpotとなった立町通りは、中世には中小路と呼ばれていました。中小路は、現在の中央通りへと続き、突き当り(中原松月堂)までの一本道です。国道や県道など大きな道路の開通とともに、今では少しさびしい通りとなっていますが、昭和の頃までは隈府のメインストリートとして栄えていました。
当時、一番南を通っていた南小路は、現在の正観寺通りと栄町通り、肥後銀行菊池支店(ここで突き当りの三叉路でした)で左へ曲がり、現在の国道387号の北宮神社入り口付近まで続く道です。この道沿いには、菊池平野を潤し菊池米など豊かな農産物をはぐくむ築地井手が流れています。以前は、町中でもその流れを見ることができましたが、水質汚染や道路拡張などの事情により、現在ではほとんどが蓋をされてしまいました。町中では、前回のSpotにもなった肥後銀行菊池支店横のみが、流れを感じることができる場所となっています。
鷹匠小路、御所小路、中小路、南小路を南北に結ぶ道は、それぞれ2本ずつ通っており、碁盤の目状に走る隈府の町割りの基本形ができていることが分かります。昔の道と今の道、同じ所と違う所を探しながら歩いてみてはいかがでしょうか。
菊池温泉1号井
熊本県菊池市
菊池温泉は、今年、1954(昭和29)年の温泉湧出から70周年を迎えます。ここの1号井は、1953(昭和28)年に最初の掘削地点と定められた場所です。
菊池に温泉ができるまで、隈府町の人々は湯治といえば、阿蘇の杖立や内牧などへ起伏の多い山道を歩いて一日がかりで出かけなければなりませんでした。今と違い交通事情が良くない時代には、とても大変なことで「隈府にも温泉があれば」というのが、長い間の町民の願いでした。
この願いをかなえるため、1924(昭和9)年、349人の出資により温泉掘削が始められます。しかし残念なことに、この事業は事前調査の不足や機械の力が十分ではなかったため挫折してしました。
時は過ぎ1945(昭和20)年、敗戦の混乱の中、隈府町商工会では、今後の発展のためにも思い切って温泉掘削をという強い要望があがりました。当時の会長村川信彦氏は、熟慮の末、私財をなげうつ覚悟で温泉掘削を決意されたのでした。その後、地質調査や資金の調達など次々と起こる困難にも負けず、会長は温泉掘削に意欲を燃やし続けました。
そんなある夜、会長は不思議な夢を見ます。城山の高台から下を見ると、なんと銀の鱗を光らせた白龍が登ってくるではありませんか。その後方に立つ美女が「あれは親龍です。後ろの子龍をごらんなさい。」と指さす方を見ると、たくさんの子龍が湯煙の中で戯れています。これこそ神様のお告げと決意を新たにした会長は、ますます温泉掘削に向けて励まれました。
その執念ともいうべき努力が実り、1954年6月26日菊池温泉掘削起工式が行われ掘削開始、数回の測温を経て11月3日、めでたく仮設浴場において浴場開きを迎えることとなったのです。この仮設浴場こそが、まさに菊池温泉の出発点であり、いつでも温泉が楽しめる温泉観光都市が誕生しました。
町歩きを楽しまれた後は、ぜひ菊池温泉で冷えた体を温め疲れを癒し、活力ある明日をお迎えください。