※本ツアーは終了しました。
ローカル鉄道で行く【房総の春」大多喜城城下歴史とお花見ハイキング、いすみ鉄道デンタルサポート大多喜駅前の観光本陣をスタート、メキシコ友好記念碑、メキシコ通り、大多喜県民の森を経由して桜の名所大多喜城、大井戸、薬医門、豊乃鶴酒造、大屋旅館、夷隅神社、本多忠勝忠朝墓所、行徳橋の忠勝銅像、寺町通りから商い資料館、釜屋、伊勢港酒店、国の重要文化財の渡辺家住宅をめぐる歩行距離7km所要時間3時間15分(施設見学を含む)のハイキングコース
ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「18219」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。
いすみ鉄道 大多喜駅
千葉県夷隅郡大多喜町
いすみ鉄道の歴史は、1920年代に木更津と大原を結ぶ路線として計画され木原線と名付けられました。1934年に大原~上総中野間 26.8kmが開通しましたが、木更津まで結ぶ計画は潰れてしまいました。国鉄木原線として運行されいましたが国鉄分割民営化により1988年第三セクターいすみ鉄道として再出発致しました。★イベント レストラン列車(毎週日曜日) 枕木オーナー制度 ★見所 3~5月桜菜の花の開花期間
大多喜町観光本陣
千葉県夷隅郡大多喜町
大多喜町観光本陣は観光案内所で、無料休憩所、トイレ、コインロッカーのご利用いただけます。チョイモビ、人力車、レンターサイクルの貸出、オリジナルブランド地酒、地元推奨品のお土産を取り揃えて皆様のお越しをお待ちしております。
メキシコ友好記念石碑
千葉県夷隅郡
1609年ルソン島からメキシコに向かうサンフランシスコ号が、9月4日御宿町岩田沖で座礁し乗組員373名中313名が救助され、大多喜城主本多忠朝が2代将軍徳秀忠に謁見、駿府の徳川家康を訪問し歓迎を受けた一行は、家康の建造した船で1610年6月13日浦賀港を出帆し、10月27日にメキシコのアカプル港に到着した。
1978年11月にメキシコス大統領が来日訪問を受け、大多喜城に向かわれたことからメキシコ通りと名付けられた。
大多喜県民の森タケの情報館
千葉県夷隅郡
大多喜町は県下でも有数の竹林面積を有しており、タケノコの生産が盛んな地域でもあることから、「竹をテーマ」とした県民の森が整備され、園内には、竹笹園・キャンプ場・竹工芸センター・竹の情報館があります。
大多喜城
千葉県夷隅郡
大多喜城は、1590年本多忠勝(十万石)が築城し、本多氏三代(忠勝、忠朝、政朝)で国替えとなり、阿部氏、青山氏 稲垣氏、とかわり、1703年松平正久がこの地の移封して以来九代を経て、1871年(明治四年)廃藩、廃城となりました。現在の大多喜城は1974年9月10日城郭様式3層4階の鉄筋コンクリート造りの千葉県立総南博物館として開館しました。 2021年1月28日から耐震化工事のため休館中ですが、研修館及び敷地内は散策見学等解放されています。
大井戸
千葉県夷隅郡
1590年(天正18年)本多忠勝が築城した時に掘られたもので、八角の井桁を組み、そこに八本の柱があって、杉皮ぶきの東屋風の建物であった。梁には八個の滑車とつるべ桶一六が用意されて、水を汲みあげたという。大多喜城には、大小25の井戸があり、その中で二の丸の井戸は、周囲17メートルもあって、言い伝えによると、50人の人夫で二昼夜汲み続けたが湧き水が多く,取止めたと言われています。現存する城内日本最大の井戸である。
薬医門
千葉県夷隅郡
大多喜城の建造物は、1871年廃藩とともに壊されてしまいましたが、唯一薬医門だけが残され 二の丸跡の大多喜高校の玄関脇に移築復元されました。 薬医門は、大多喜城の往時の一端がしのばれる唯一の遺構で、薬医門は大きさから、馬上豊な武士が通行した正面ではなく、御殿の門であったと考えられる。
豊乃鶴酒造
千葉県夷隅郡
豊乃鶴酒造は1781から88年頃に創業し、明治時代に現住所に移りました。 現在蔵を構える大多喜町は、緑豊かな自然に囲まれ、伝統が根付いた町です。格子戸と蔵造りの家屋など歴史的な面影を色濃く残し、ドラマの撮影にも度々利用され ..国の登録有形文化財です。
大屋旅館
千葉県夷隅郡
江戸時代より続く門前宿で、大正期から昭和初期にかけては、旅館業の他に、フォードの車を使用したバス(乗合自動車)事業も営んでいた。1891年(明治24年)に正岡子規が学生時代の頃、房総の旅に出た際に宿泊したとされる。また、つげ義春の『リアリズムの宿』に“理想の宿”として、帳場の佇まいが描かれた。往時の面影を残す宿として、テレビドラマや写真集のロケ地としてしばしば利用されている
現在の建物は1885年(明治18年)頃の建築で、1999年7月8日に国登録有形文化財(建造物)に登録された
夷隅神社
千葉県夷隅郡
大多喜町では最も格式の高い神社で、縁結び、夫婦和合、安産、子育て等の御利益が特に外大きいと言われています。神社の歴史は古く、1041年再建され、1587年里見氏の武将正木大膳亮が根古谷居城の時再築以後、本多忠勝より最後の城主松平正質まで武運長久の祈願社として崇敬・加護されてきました。境内では本多忠勝が推奨した六斎市が毎月5日、10日、15日、20日。25日30日に8時から12時まで開催されています。
良玄寺本多忠勝墓所
千葉県夷隅郡
1595年本多忠勝が建立し、寺領百石を寄進したと言われています。忠勝は1610年63歳の生涯を終え、桑名浄土寺に葬られ、忠朝は1615年大坂夏の陣で戦死し大阪の一心寺に葬られ、良玄寺に分骨されました。墓地には本多忠勝,、夫人、次男忠朝の墓があります。本堂には本多忠勝像模写絵が飾られています。
行徳橋 本多忠勝銅像
千葉県夷隅郡
初代大多喜城主本多忠勝墓所から少し離れた行徳橋に本多忠勝座像が設置さてています。
商い資料館
千葉県夷隅郡
1階は江戸時代の商家の帳場を再現、2階には「町家の暮らし」、「暮らしの道具」、「職人の道具」、「暮らしと遊び」の資料コーナーを設けています。資料コーナーは、入場無料です。
釜屋
千葉県夷隅郡
明治9年江戸の見世蔵形式を取り入れた質屋、中央の水釜、稲荷様が特徴で江戸の見世蔵形式を取り入れた建築様式の商家釜屋は、当初、質屋から金物店に転業し、建設会社を経て現在町が所有しています。1階は土間と居室が2部屋、2階は、蔵座敷が2部屋あり、玄関のくぐり戸や窓の開閉に工夫が凝らされています。また庭先の稲荷様が当時の繁栄を物語っている。
渡辺家住宅
千葉県夷隅郡
渡辺家は、大多喜藩の御用達を勤めた商家で、「穀家」の屋号で知られる。この建物は、棟札から1849年に建てられたことがわかる。道路に面する主屋は2階建ての町家形式をとり、1階は、店舗として利用され、前面に土庇が付く。1階店舗部分の間取りは、6畳、4畳半と台所が設けられた土間からなり、それに続いて居間が角屋風に主屋の背面に突きだしている。居間は中間と書院造の座敷をもった奥の2室となっている。