近松門左衛門 心中天網島ゆかりの橋と大阪城をめぐる

大阪市

近松門左衛門 心中天網島ゆかりの橋と大阪城をめぐるのイメージ

2013年に生誕360年を迎えた近松門左衛門にちなみ、代表作の1つ「心中天網島」に登場する橋(天神橋・天満橋・京橋)を取り入れた散策コースです。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「04733」で検索してください。
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難波橋 

大阪府大阪市

難波橋 のイメージ

●勇壮なライオン像
難波橋の通称は「ライオン橋」。勇壮なライオン彫刻が四隅の親柱の上に配されている。この像は大正4年(1915)に完成した市電事業の一環として難波橋が架けられた際につくられた。中之島の水上公園の一部として設計されたとあって、石橋風の外観、公園のアプローチとなる階段、獅子像、市章である「みをつくし」を組み込んだ欄干、しゃれた橋上灯など、ほかの橋とは一線を画した装飾的な景観をもっている。 なにわ名橋50選の一つ。

天神橋

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天神橋のイメージ

● 江戸時代、大坂随一の長橋
文禄3年(1594)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が架けたと伝えられ、当初は新橋と呼ばれていた。天満天神社が管理することから天神橋と呼ばれるようになったという。江戸時代は、幕府が管理する公儀橋。なにわ名橋50選の一つ。

八軒家浜船着場

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八軒家浜船着場のイメージ

もとは永田屋昆布本店にあった八軒家浜船着場は、その昔、八軒の船宿があったことからその名がついたと云われている。
 この船着場は江戸時代、熊野詣の陸の 拠点として賑わった場所。十返舎一九著「東海道中膝栗毛」に登場する弥次・喜多コンビや、浪曲「石松三十石舟」で森の石松が大阪上陸の第一歩を踏みしめた 場所として紹介されている。
 今では大阪⇔京都間は電車で約30分程の移動であるが、江戸時代は船で京都→大阪は片道約6時間、大阪→京都は川の流れに逆ら うことから約12時間をかけた旅であったそう。
 現在はのんびりとクルージングを楽しめる港として復活し、人々の憩いの場となっている。

天満橋

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天満橋のイメージ

● 町役人が行き交った橋は今、2階建て
 江戸時代、難波橋・天神橋と並ぶ浪花の三大橋の一つで、幕府の直轄管理である公儀橋の一つでもあった。北区天満と中央区天満橋京町を南北に結んでおり、今も昔も人々の生活上なくてはならない連絡橋である。
 当時、東西の町奉行所が天満橋の南側にあり(のちに西町奉行所は本町橋東北詰に移転)、北側には役所の倉庫や町与力の屋敷が並んでいた。天満橋はお役人らの通勤・連絡経路として利用された。
 明治18年(1885)7月はじめの大洪水により橋が流され、その後、鉄橋に架け換えられた。
 現在、天満橋の上は土佐堀通りをまたぐバイパス道路が走り、2階建ての構造になっている。なにわ名橋50選の一つ。

京橋

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京橋のイメージ

京橋は、大阪城の北側すぐの寝屋川に架かっている。この橋は大阪城の北玄関口に当たる橋で、豊臣秀吉の時代に架けられたともいわれている。江戸時代には重要な公儀橋に指定され、大坂城を起点として京都へ向かう京街道や野崎参りで有名な野崎街道を兼ねる大和街道の出発点でもあった。
 京橋のたもとには、江戸幕府から大阪で独占的に川魚を売ることを公認されていた市場があったことを示す「京橋川魚市場跡」の石柱がある。
 現在の橋は、第一次都市計画事業に基づいて大正13(1924)年に架け換えられ、昭和5(1930)年にスタートした寝屋川の改修事業時に手直しされたもの。その後、昭和56(1981)年に改装された。
 改装に当たっては大阪城の歴史的背景を創造できるよう、石垣のモチーフでまとめられ外郭を形成する石塁の力感ある構造が高欄や親柱に採用された。高欄は植樹枡を兼ねた構造で歩く人に安らぎを与え、橋の照明は太閤秀吉ゆかりの千成びょうたんを模した形となっている。

大阪城

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大阪城のイメージ

●13の重要文化財
豊臣秀吉(とよとみひでよし)がつくった大坂城は、豊臣家の滅亡とともに失われ、現在残っているのは徳川時代になって再建されたものである。敷地内の建築物は櫓5つ、塀3つ、城門2つ、蔵2つ、井戸屋形1つの計13個が重要文化財に指定されている。

●長大な石垣を築いた武士たち
秀吉の大坂城より規模の点で劣る徳川家の大坂城だが、それでも全長12㎞という長大な石垣に圧倒される。使われている石は50〜100万個と推定され、最も高い場所で水面から24.5m。そびえたつ石組みは圧巻である。この石垣は、当時の徳川家傘下の大名たちの手でつくられた。

●270年間存在しなかった天守閣
豊臣秀吉が天正11年(1583)に築城を開始したのが、最初の大坂城。慶長20年(1615)の大坂夏の陣での落城後は徳川家の管轄となり、元和6年(1620)から再建が始められた。だが寛文5年(1665)の落雷以後約270年、天守閣は存在していなかったことを知る人は少ない。その後、戊辰戦争による戦災や、陸軍用の敷地としての管理、空襲での被害などを経て、現在に至る。

●市民の寄付が生み出した現在の姿
現在の天守閣がつくられたのは、昭和6年(1931)。当時大阪市長だった關一(せきはじめ)氏の提案で、復興費150万円(当時)は全額市民からの寄付であり、建設された天守閣は、大阪の新たなシンボルとして注目を集めた。天守閣のモデルとされたのは、大坂夏の陣図屏風に描かれた姿だという。さらに建築監督には一介の町の建築家を大抜擢するなど、完全に市民の手に委ねられた復興計画であった。

●中は博物館として歴史を伝える
天守閣の中は、近代的な歴史博物館になっていて、秀吉や大阪城の歴史を学ぶ場所になっている。ジオラマやシアタールームなどの設備も整い、また最上階の展望台からは大阪のまち並みを一望できる。展示室では、約2カ月ごとに収蔵品を入れ替えている。