魅力ぎっしり中央区 森ノ宮~南船場

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魅力ぎっしり中央区 森ノ宮~南船場のイメージ

中央区を東西に歩くコースです。もちろん東西のどちらからスタートしてもOKです。
まちの雰囲気がどんどん変わっていく様子を楽しみながら、各スポットでは歴史や歴史上の人物との関わりを学ぶことができます。

Spottourアプリの使い方やGPSの問題など、デジタルスタンプラリーに関することについて、施設側へお問合せすることはご遠慮ください。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「96762」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

鵲森宮【かささぎもりのみや】

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【GPSスポット】鵲森宮周辺

「鵲森宮(かささぎもりのみや)」は、通称、森之宮神社とも呼ばれ、聖徳太子が建立しました。その創建は、四天王寺や法隆寺よりも古いとされています。 崇綾(すしゅん)天皇2(589)年7月、物部守屋(もののべのもりや)との戦いに必勝を祈願し、勝った暁には四天王像をつくることを誓った太子は、その戦いに勝利し、まず、父母の用明(ようめい)天皇と穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后を祀りました。その後、四天王像をつくり、この森に元四天王寺を建てたといわれています。このことから、「鶴森宮」は、古地図や古文献にも多数記されており、さらに、日本で唯一、用明天皇と穴穂部間人皇后を祀る神社として現在に至っています。
『日本書記』によると、このあたりを難波の杜と呼んでいた推古(すいこ)天皇の時代、鉄鋼業の祖といわれている難波の吉士磐金(きしのいわかね)が、新羅(しらぎ)国より帰国し、鵲(俗に朝鮮烏) 2羽を献上しました。その鵲をこの森で飼わせたことから「鵲の森」と呼ばれ、やがて「鵲森宮」という宮の名となり、略して「森之宮」というようになったと言います。

もりのみやキューズモールBASE

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【GPSスポット】「BASEパーク」周辺

もりのみやキューズモールBASEは、平成27(2015)年に開業したショッピングモールです。
東急不動産株式会社が管理・運営する「キューズモール」の4店舗目で、日本国内の商業施設では初めて、屋上に本格的なランニングトラック「エアトラック」が設置されています。
日生球場の跡地に建設したことから、施設名には野球の塁を意味する英語のBASEを入れています。

★大阪あるき案内人たけちゃんが紹介するAR動画
 ・2025年3月31日まで視聴いただけます

①音声版
https://palanar.app/v2/ar_contents/copy_1ecdfa19530d0f56

②テロップ版
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越中井【えっちゅうい】

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【GPSスポット】越中井周辺

「越中井(えっちゅうい)」のあるこの付近は細川越中守忠興(ほそかわえっちゅうのかみただおき)の邸跡で、越中井はその邸内にあったものと言われています。慶長5(1600)年関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしましたが、忠興夫人玉子(洗礼名ガラシャ)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じました。
近くのカトリック教会には、ガラシャ夫人像とキリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)像があります。

難波宮跡【なにわのみやあと】

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【GPSスポット】大極殿跡周辺

昭和29(1954)年に始まった発掘調査によって、難波宮(なにわのみや)の存在が確認されました。昭和36(1961)年に、難波宮の中心部である大極殿(だいごくでん)跡が発見されました。
発見されたのは、前期と後期2時期の難波宮の遺跡です。前期難波宮は難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)と考えられ、大化の改新後に孝徳(こうとく)天皇が移り住んだ都でした。天皇(大王)の居所である内裏と重要な政務・儀式をとり行う朝堂院、および東西に配された官衙(役所)からなります。すべて掘立柱の形式で建てられ、瓦は使われていません。
後期難波宮も、前期と同じく内裏と朝堂院を中心としています。大極殿と朝堂は凝灰岩で覆われた基壇の上に礎石を置いて建てられ、瓦が葺かれていました。この宮殿は奈良時代に聖武(しょうむ)天皇の遷都によって、一時期に首都となりました。
さらには、前期難波宮以前の遺跡も発見され、瀬戸内海に面したこの地が古代から重要な場所だったことがわかっています。
史跡難波宮跡には当時の遺構が復元されていますが、何といっても壮大な大極殿の基壇が目立っています。大極殿は後期難波宮の中心となる建物です。丹塗の柱と白壁で飾り、内部には政治や儀式のときに天皇が出御する、高御座が設置されていました。

大槻能楽堂【おおつきのうがくどう】

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【GPSスポット】大槻能楽堂周辺

昭和10(1935)年創立。桟敷席が主だった当時の能舞台の見所(客席)にあって、椅子席を導入した最初の能楽堂です。建物は大改修、改築を経たものの、 戦火を逃れた桧の舞台は、90余年(2024年現在)の刻を脈々と受け継いでいます。
大阪城にほど近く、歴史深い上町台地に位置し、舞台の橋掛かり(演者の出てくる廊下)の背景には、大阪城の石垣の一部が実物大で写し取られています。
昭和58(1983)年、木造から鉄筋コンクリートへと改築しました。さらに令和元(2019)年から改修工事が行われ、令和2(2020)年にリニューアルオープンしました。

★大阪あるき案内人たけちゃんが紹介するAR動画
 ・2025年3月31日まで視聴いただけます

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太閤下水【たいこうげすい】

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【GPSスポット】太閤下水周辺

近世からずっと使用され続けている太閣下水(たいこうげすい)は、建物と建物の背中合わせの間を割るように流れていることから「背割下水(せわりげすい)」とも呼ばれています。
途中、明治期に改良されたとはいえ、これほど長く使われている下水道は全国にも類を見ず、平成18(2006)年には一部(約7㎞)が大阪市文化財に指定され、これを機に地上から見学できるよう見学施設の改造が行われました。
なお、この太閣下水は、その名のとおり豊臣秀吉が造ったかは現時点の調査では確認されていないものの、江戸時代前期に素掘りの水路が造られ、のち(江戸時代後期)に現存の石組みが築かれたと判断されています。

三木楽器開成館【みきがっきかいせいかん】

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【GPSスポット】三木楽器開成館周辺

三木楽器は、江戸後期の文政8(1825)年、大阪船場に貸本屋「河内屋佐助(かわちやさすけ)」として創業しました。令和7(2025)年で創業200周年を迎えます。

開成館(かいせいかん)は、創業100周年にあたる大正14(1925)年、増田建築事務所の設計により、鴻池(こうのいけ)組が施工を行いました。ショーウィンドウが特徴の鉄筋コンクリート造で、地上4階、地下1階建ての建物は、大正期の都市部に建設された商業ビルの代表作です。

外壁は茶褐色のレンガで、裾部を花崗岩の貼り付けとし、2階と3階の窓の間には植物のレリーフが加えられています。縦の線を強調したスタイルは、ドイツのピアノ製作会社の本社建物の外観を意識したといわれています。三木楽器本店ビルは平成9(1997)年に国登録有形文化財に登録されました。

※1階店舗及び外観のみ見学可能(店舗は水曜定休)

難波神社【なんばじんじゃ】

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【GPSスポット】難波神社本殿周辺

難波(なんば)神社は、仁徳(にんとく)天皇を祭神として建てられたと伝えられ、ほかにも源頼朝が土地を寄進した記録があったりと、歴史上の人物が随所に登場する由緒ある神社です。安土桃山時代に豊臣秀吉が大阪城を築城する際、難波神社は現在の場所に移転しました。その時、秀吉の庇護を受けて約6万坪の敷地を持つようになりましたが、大阪夏の陣で豊臣家が没落したことにより、難波神社も影響を受け、敷地が大幅に縮小されました。その状態が現在の難波神社に続いています。

★大阪あるき案内人たけちゃんが紹介するAR動画
 ・2025年3月31日まで視聴いただけます

①音声版
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②テロップ版
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坐摩神社【いかすりじんじゃ】

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【GPSスポット】坐摩神社本殿周辺

天正10(1582)年、大川の南岸、八軒屋・渡辺の津(現在の中央区石町付近)から現在の中央区久太郎町に遷座(せんざ)されました。坐摩(いかすり)の語源は、居住地を守るという意味の「居所知」(いかしり)が転じたものといわれます。

境内の西側には陶器神社があります。明治の終わリ、市電敷設の道路拡張のため坐摩神社の境内に移されました。各地の陶芸作家が寄進した絵皿や全国の焼き物の里から奉納された陶磁器を見ることができます。

★大阪あるき案内人たけちゃんが紹介するAR動画
 ・2025年3月31日まで視聴いただけます

①音声版
https://palanar.app/v2/ar_contents/copy_a9c35310bba104ab

②テロップ版
https://palanar.app/v2/ar_contents/copy_1e6afc9cc29a171a