菊池のしらべ2023 第3回デジタルスタンプラリー

熊本県

※本ツアーは終了しました。

菊池のしらべ2023 第3回デジタルスタンプラリーのイメージ

 9月24日に始まったスタンプラリーも、第3回目となりました。
 菊池市には、この地域を拠点として中世時代のおよそ450年間、九州を舞台にして活躍した菊池一族の足跡がいたるところに残されています。
 特に、16代当主武政公の時代に、本城を深川から隈府に移したときに本格的に始められ、21代当主重朝公の頃に完成したと伝えられる隈府の菊池本城城下町には、時代を経てもなおそのエッセンスを色濃く残しています。
 このスタンプラリーは、まちなかに残る菊池一族の足跡を紹介して、その魅力をご参加の皆様に知っていただくためのものです。
 今回は特別版ということで、少し範囲を広げてスポットの数も増やしています。
 各スポットのあいだにも楽しい場所がいっぱいです!
 気軽なおさんぽ感覚でお楽しみください!
 コンプリートで菊池一族オリジナルグッズがもれなくもらえるほか、抽選で菊池市の特産品も当たります。
 ※スタンプは道路から獲得することができます。それぞれの歴史は道路からの眺めでお楽しみいただき、個人の敷地には入らないよう、注意をお願いします。

ツアーの参加にはアプリが必要です。アプリをインストールしてツアーコード「99504」で検索してください。
アプリを利用すると、デジタルスタンプラリーやフォトブックなどが楽しめます。事故やケガに備えて100円で最大1億円の保険も加入できます。

菊池武光公騎馬像

熊本県菊池市

菊池武光公騎馬像のイメージ

 菊池武光公騎馬像は、平成4(1992)年にこの「菊池市ふるさと創生市民広場」に設置されました。
 菊池一族は、九州の首府である大宰府が菊池に所有する荘園の管理をするため、延久2(1070)年に赴任した藤原(菊池)則隆を初代とし、以降約450年にわたって、菊池を本拠地として肥後一帯を治めた豪族(武士団)です。
 武光は一族の領地であった豊田荘(現在の熊本市城南付近)に生まれ育ち、先代武士(たけひと)の時に北朝方に奪われた菊池一族の本拠地、菊之城(深川館)を奪い返して15代当主になりました。
 正平3(1348)年、九州を治めるべく父後醍醐天皇より征西将軍に任じられ、わずかな手勢と共に九州上陸を果たした懐良親王を菊池に迎え、これをもって九州南朝方の政府である征西府が菊池に置かれることになります。その後武光は親王を支え、九州を南朝の勢力下に置くべく、各地で激しい戦いを重ねていきます。
 そして正平14(1359)年、現在の久留米市高良山の眼下に広がる平野で、日本三大合戦に数えられる「筑後川の戦い(大保原合戦、大原合戦)」の勝利を経て大宰府に征西府を遷し、それからおよそ10年間、九州一円を南朝の支配下におきました。
 その後は更なる勢力拡大を狙って四国伝いで本州へ攻め上ろうとしますがこれに失敗。これを重く見た北朝方は幕府きっての優将とされる今川了俊を派遣。征西府は大宰府を北朝に奪われ高良山まで陣を引きますが、南朝方の勢力を盛り返すことはできませんでした。武光はこの時の戦傷がもとで文中2(1373)年に亡くなったとされています。
勇ましい武光騎馬像が持つ軍配は、大宰府に向けられています。

菊池松囃子能場

熊本県菊池市

菊池松囃子能場のイメージ

 毎年10月13日、菊池神社の秋の例大祭で奉納される菊池の松囃子(御松囃子御能)。その舞台となるのが、「菊池松囃子能場」です。県の有形民俗文化財に指定されています。
 御松囃子御能は、菊池一族15代武光が征西将軍宮懐良親王をお慰めするために始めたとされ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。天下泰平と国家安穏の願いを込めて舞われます。
 能場の向かいには、親王お手植えと伝えられる樹齢600年を超えるムクノキ「将軍木」が枝を広げています。県指定天然記念物で、将軍とは、懐良親王=征西将軍のことです。
 現在の能場は江戸時代の終わりごろに建て替えられたものを改修しながら使用されています。当時の様子を伝える『嶋屋日記』によると、能舞台の老朽化が著しく、建て替えを細川藩に願い出たところ、藩財政が厳しい時代(当時の藩主は細川重賢)だったこともあり、「娯楽のための施設など不要」と許可されなかったそうです。ところが、当時の隈府の住民たちは、「隈府の能舞台はただの娯楽施設ではありません、地域の歴史を伝えるとても大切な建物なのです。」という主旨で、再度建て替えを願い出ました。その結果、藩から「それでは、通常より少し小さめなら。」という条件付きで許可されたとのことで、他の能舞台より小さめなのは、そのような理由によるものです。
舞台の下には大きな甕が3つ据えられており、これは音響効果を狙ったものだといわれています。

菊の城本舗店舗兼主屋

熊本県菊池市

菊の城本舗店舗兼主屋のイメージ

 菊の城本舗は、以前からあった酒蔵「北窓」を引き継ぐ形で明治28(1895)年、有田幸人氏によって創業されました。当初は隈府横町(現在の玉屋葬儀社付近)で酒造りを始めましたが、水の問題なのか、すぐに水が腐れてしまい、良い環境を探したところ「北窓」にたどり着いたとのことです。しばらくは「北窓」の銘柄を引き継いでいましたが、間もなく「菊の城」の銘柄に変えました。
 平成16(2004)年に操業を終了するまでの109年間に亘り、とりわけ昭和53年以降は菊池市唯一の酒造として操業されてきました。
 菊池市には記録の上で「菊源」「菊英」など複数の酒造があったことが分かっていますが、現在施設そのものが残されているのは菊の城本舗のみです。
 以前は麹蔵、貯蔵蔵、煙突なども残されていましたが、平成28年熊本地震の被害にあい、やむなく解体されました。
 2階天井裏に残された棟札には、事務所及び住居部分は昭和10年棟上げ、大工棟梁は上田安太郎、施主は有田幸人と記録されています。外壁は黒壁仕上げで、1階土間部分の天井は格子天井と凝った構造ですが、事務所部分は外壁を含め増改築がなされています。

迫間川河川敷

熊本県菊池市

迫間川河川敷のイメージ

 菊池一族は、1070年に初代則隆が太宰府天満宮荘官として菊池に赴任し、菊池川のほとりに居(菊之城)を構え、水運を利用して勢力を拡大していった、といわれてきました。
 このことでは、近年の発掘調査で、菊之城跡から少し今の菊池川に近づいた深川佐保川八幡宮(則隆の勧請)の近くから、護岸施設(舟着場)が発見され、水運利用が裏付けられました。
 これらの菊池一族が残した歴史の足跡は、日本の歴史を語るうえで非常に重要であるとのことから、菊之城跡(北宮館跡と呼ばれます)、護岸施設が発見された菊之池B遺跡、そして菊池一族の氏神である北宮阿蘇神社を総称して「菊池氏遺跡」と呼び、近いうちに国の文化財(史跡)に指定されることが発表されました。
 菊池川はもちろんですが、迫間川やその支流も水運に利用されたことは想像に難くなく、例えば神来(おとど)にある貴船神社(則隆の勧請)の横には舟着場跡が残されており、このことは江戸時代の資料にも記されています。
 また、16代当主武政の時に一族の本拠地が菊之城から守山城に移されていますが、この時には、北を流れる迫間川、南を流れる菊池川を天然の濠に利用するなど、菊池一族は河川のもたらす恵みを最大限に活用していたことがうかがえます。

隈田本店

熊本県菊池市

隈田本店のイメージ

 隈田本店の母屋は、現在棟書きが残され、分かっている限りでは、隈府で一番古い建造物です。
 昔近隣にあった「田尻邸」を、現在地に曳き屋で移動したとのことです。1階が住宅造り、2階は蔵の造りという「居蔵造り」になっています。建主は「田尻邸」であったことから、田尻何某かと推定されます。棟梁は唯吉・忠吉・傳作・喜八、棟上げは文化15(1818)年です。
 当時の菊池の様子を記録した『嶋屋日記』にも記載があるとおり、大火が非常に多かったとされる隈府の特色ある建築形態をよく残している住居です。店舗も、明治36年の創業と近い時期に建てられているようです。
 以前はレンガ造りの煙突が残されていましたが、平成28年熊本地震の被害により、やむなく解体されました。
 現在は、こだわりの味噌・醤油を製造・販売されています。造り酒屋から分かれた先々代が、その技術を生かして作り始めたとのことです。

築地井手(肥後銀行菊池支店横)

熊本県菊池市

築地井手(肥後銀行菊池支店横)のイメージ

 築地井手は、加藤清正が慶長年間(1596~1615年)に開削したとされ、菊池川水系の井手では最も古いものといわれています。隈府から下流地域の水田およそ228町を潤し、具体的に、神来(おとど)や野間口(のまぐち)など、すぐ近くを迫間川が流れる地域まで含まれています。このことは、寛政6年(1794年)、隈府の儒学者・渋江公正(松石)が執筆した『菊池風土記』に記されています。
 築地地区の取水口から井手の流れを少し下ったところには、清正による井手の開削を顕彰する地域有志により、大正12年に清正の石像が建てられています。
 また、築地井手は正観寺の菊池グランドホテル前で二手に分かれ、南側を通る井手は新堀井手と呼ばれ、もとの井手のあとに掘られたものといわれています。
諸説ありますが、この新堀井手については、菊池一族のあとに菊池本城(守山城)の城主となった隈部氏の時に、当時の守山城の範囲が大きすぎたので、その範囲を狭めるために掘られた濠を井手に転用した、という伝承もあるようです。
 広大な面積の水田を潤しつつ、隈府を中心とする地域住民の生活用水としても親しまれた築地井手ですが、生活排水などによる水の汚染や車社会への移行に伴う道路整備などの事情から、現在はほとんどの場所で蓋をされています。その後の地域の取り組みにより水質は改善されていますが、一度蓋をしたものを再び開けることは容易ではなく、隈府のまちなかで井手の流れを見ることができるのはこの場所だけになっています。

隈府冷蔵

熊本県菊池市

隈府冷蔵のイメージ

 昭和5年に合資会社隈府製氷として、川瀬又勝氏により設立されました。
 夏は氷を製造、冬は練炭を作っていました。倉庫は、スラグ煉瓦を使用して建てられています。スラグ煉瓦とは、練炭を作るときに出るスラグ(鉱石から金属などを精錬するときに出る鉱滓)を流用して作られた煉瓦のことです。社内で再利用しているという意味で、すばらしいリサイクルで、SDG’sの先駆けともいえます。
 氷室がきれいに残され、内部の壁には木を張ってあり、非常に分厚い壁で作られているため夏でも涼しく保たれています。世間遺産(身近な場所にある遺産として残したい珍しいもの、貴重なもの)の写真家藤田洋三さんは、恐らく間にコルク壁が張ってあるのでは、と指摘されています。
 製氷及び冷凍保存時には、アンモニアを使用していたため、当時はかなりの臭いがしたそうです。モダンで素敵な外観にそぐわず、ちょっと残念...だったのですね。

熊耳山正観寺

熊本県菊池市

熊耳山正観寺のイメージ

 興国5(1344)年、菊池氏15代武光により菩提寺として建てられた臨済宗の寺です。
 それより遡ること10余年、元弘3(1333)年に12代武時が博多の鎮西探題を襲撃した際、幼少の武光は博多の臨済宗聖福寺に匿われ、無事菊池に送り返されました。後に当主となった武光は、その恩を返すため同寺の大方元恢和尚を招き、正観寺を建立したのです。京都・鎌倉にならい菊池五山(輪足山東福寺、無量山西福寺、手洗山南福寺、袈裟尾山北福寺、九儀山大琳寺)を定め、正観寺を別格「五山の上」に格付けしました。
 武光は寺領66町を寄進し、20代為邦の頃には天下十刹にも選出されるほど繁栄し、菊池の信仰の中心としての役割を担いました。
 境内に入ると、大きなクスノキの下に15代武光の神道碑(亀趺の墓)が建っています。安永8(1779)年、湊川神社(神戸市)にある楠木正成の墓にならって造られたもので、細面で吊り上がり気味の鋭いまなじりを持つ、とても凛々しい顔立ちの亀蛇です。ほかにも境内には、16代武政、武光の兄武澄など一族の墓もあります。
 参道正面には地蔵堂が建っており、その周りには礎石群が残っています。
 現在は、地蔵堂の基壇の東側に5個、西側に5個、北側に2列で5個と4個、そして外側の中央に接して2個あります。礎石の状況から、正面は3間(約5.4m)、側面4間(約7.2m)の建物が建っていたと考えられます。
 礎石の周辺からは、古代の布目瓦が灰とともに出土しており、古代(平安中・後期)の寺院跡と考えられ、当時の堂宇や庫裏があったと想定されています。
 また地蔵堂の北東側に建つ観音堂は、菊池33霊場の21番札所となっています。